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自分の不幸は密の味

エネルギーワークや宇宙や過去生などの”スピリチュアル”にこだわりすぎると自分を見失います。興味があってもほどほどに。エンターテイメントの一つだと思える程度の距離感を保つ方がが心身が健全ですが、どっぷり入りこむとカルト化します。お酒にハマってアルコール中毒になるのと同じです。なんでもそうですが、一時の快楽や安らぎがあっても溺れると自分を苦しめます。アルコール中毒と同様に脳や身体、心にダメージを負いかねません。

心と身体が健康で毎日ごはんが食べれて住む家があって生活に困らない程度のお金があって無理のない人間関係があることが生きていく上で大切な基盤ですから、それに支障が出ている場合、例えば強迫神経症のような言動や思考、皮膚炎、不眠、借金、過度な断捨離、ヒーラーや指導者の言葉を全面肯定する(しなきゃいけないと思っている)などが実際に起こっているなら、一度離れることをおすすめします。

人間は「自分が正しい」と思いこもうとする生き物で、自分は正しいと肯定するために常に自分や周りにバイアスをかけます。自分が良いと思った人やものは良いはずで、そう思っていない対岸に立っている人を見て愚かだとすら思うこともあります。コロナ渦の時なんかも顕著でしたね。それが悪いっていうことではなく、人間とはそういうものなんです。

それに人は何かに依存したいと思うものです。特に心が弱っている時はそうなります。科学がどんなに進化しても、人間の本質は変わりません。ハマることで癒されることはあります。その時はそれに依存することが心を立て直すために必要だったので、依存したものや依存した自分を責めるのではなく、ありがとうございましたと区切りをつければいい。

私もこれまで依存を経験してきています。例えば私自身の様々な過去生について聞く機会があって、良くも悪くも影響されました。今の私を形作る一部だと思うところもありますが、その当時のカルマや役割を引き継いでいるのだと考えすぎて不健康でした。それらはただの経験で、今の私を縛るものではあってはいけない。というか過去が私を縛るのではなく、それらをネタにして縛るのは誰でもない自分自身で、そういう自分に酔いたいだけだったとわかりました。
今世での不幸も過去生から来てるというストーリーに酔うのは気持ちいいんですよ。不幸ってストーリーに欠かせないですからね。人生の彩りには欠かせないパーツなんですよ。そこに過去生を付け加えてよりストーリー性を高める。究極の一人スピ遊びかもしれない。

スピリチュアルの本質は無だと思っています。でも私たちは無色に満足しないんです。なぜ私たちは色をつけたがるんだろうと考えた時、たぶんそれは単純に、自分の人生を彩りたいからなんですよね。正直、無だと受け入れるには人生長いしその結論を軸に生きるのは刺激が無くてつまんないんじゃないかな。

映画「トゥーヤングトゥーダイ」で地獄の方が楽しいって描かれていましたけどまさにそうで、不幸は刺激的で幸せは退屈。抗えない憎しみや悲しみの刺激の強さって圧倒的ですからね。人間を生きてるって感じがする。
たまに静けさの中でほっとする時間が欲しいけど、波風立ってる人生の方が不幸だけど実は楽しいと心(というか魂)の奥底では感じてたりする。不幸なニュースが多いということは、結局人間て本質的に不幸を求めてるのではないかな。

みんな好きに生きたらいいと思うけど、自分自身の心身や生活に支障が出てる場合は一旦立ち止まった方がいいです。スピに限って言えば、スピリチュアルは本来無ですから、今やってることから離れてもなんの問題もないですよ。むしろ一度離れた方が俯瞰で見れて気づくことがあります。ちょっと違和感を感じながら続けちゃってる場合は、これまでかけてきたお金と労力、時間についての損得勘定や人間関係で離れられない場合がほとんどじゃないだろうか。


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