改めて「アンパンマンのマーチ」に心震える
お馴染み「アンパンマンのマーチ」が子どもだけでなく、大人でも響く歌詞になっているということは、意外と一定数の人が知っている。
一方で、話のネタ程度で知っているだけで、ちゃんとは見ていないという人も多いのではないだろうか。
日本で生きている限り履修しないで大人になることは難しいであろうアンパンマンの、その代表曲について、改めて、子育て世代の責任として、歌詞を細かく確認しながら、やなせたかしの偉大さを噛み締めることとする。
初手から強敵との闘いの終盤を思わせる叙情詩を繰り出してくる。子ども向けだからというような遠慮など全くない。
「そうだ」という表現からは、今までは気づかなかったが、この度ようやく気付くことができたという意味合いが読み取れる。
我々は忘れているが、生きていることの喜びはすぐそこにあり、気づくことができれば、嬉しさを伴って体感できるものなのだという示唆を提示している。
さらにそれは「胸の傷」が痛んだとしても実感できるものだとしている。
痛みや傷を負っても尚、喜びを感じるという試行は、理解を得ることは容易ではない。
少なくとも5歳未満の子どもには難解極まると推察する。
「胸」とは、胸が躍る、胸を撫で下ろす、胸が高鳴るなど、日本では感情に密接に関係し、メタファーとして表現される部位である。
すなわち、フィジカルな痛みだけでなく、精神的な痛みを抱えた状態だとしても、それとは関係なく、生きる実感を想起することで、それを凌駕して、あるいはそれすらも喜びや嬉しさに感じうるものなのだと、やなせ氏は激励している。
一貫して主観の叙情詩が続く。
前半部分は我々人類共通とも言えるような壮大でかつ、鋭く痛みを持って自らに向けられる命題であり、それを個人の好き嫌いの感情に帰着させている。
抽象度の高い高次元の課題を、個人の感情に集約させることで、その感情の終端である私たち自身にとてつもない密度のエネルギーを湧出させてくれる。
湧出したエネルギーを、サビへ向かう曲調の変化と、分かりやすく煽るこの歌詞にエネルギーはさらに噴き出しそうなマグマのように膨れ上がる。
「だから君はいくんだ」と、最高の盛り上がり見せるうち、どこへそのエネルギーを解放しようかという中で、
と結ぶ。なんということか。
「いさましく」とか、「かつために」とか、ではなく、「ほほえんで」いるのだ。
知られているように、戦争で向けられる「正義」は誰も幸せにせず、膨れ上がったエネルギーはそのまま放てば必ず誰かを傷つけるというやなせ氏の実体験に基づく価値観がベースにあるものと推察できる。
ほほえみながら誰かを傷つけることなどできない。
そうすると自ずと、増幅したエネルギーは生きること、夢を追うことに使われるのだ。
彼(アンパンマン)に対する期待はそこに集結している。やなせ氏にとっての理想のヒーローとは、やさしくて、夢を守ってくれるような存在なのだ。
この二つのうちいずれかが欠けていては、理想のヒーローではない。
やさしさだけでは何も守れない。
夢をまもるだけでは、相反する夢を昇華できず、必ず誰かを傷つけることになる。
ここから2番に入る。
1番と同類の葛藤だが、今度はどちらかと言うと自分自身の内面へと向かうベクトルになっている。
「生き方」はどちらかと言うと外に対するベクトルを感じ、「幸せ」は内へと問いかける。
両者は、「夢」と「優しさ」の二項関係に通じるものと理解している。
実効力と調和、外向きと内向き、、いずれかが欠けては理想の形とならないものなのだ。
そこをやなせ氏は多観点で指摘しているように思う。
「だから」とは、接続詞なので、夢を忘れず涙を堪えることで、君は飛べるという最大限のエールになっている。
大丈夫、ゆめを持ってさえいれば、君はとべる。どこまでも。と。
誰だって夢に向かって足元のない場所へ飛ぶことは怖い。
しかし、ただ利己的な目的ではなく、みんなのためを思うだけで一歩踏み出す勇気が生まれることは多々ある。
ここで確信してきたが、「夢」とは他者に対する影響が内在している。
その先にやなせ氏が見たかった景色、世界が薄ぼんやり見える。
皆が自らの充足を得ながら、他者に良い影響を与える好循環が溢れる世界。
そこに戦争の影はない。
愛と勇気はその理想に向かうための同志である。
ここでの「だけが友達」という表現がよく揚げ足をとられるが、すなわち拠り所とするべきはその二つしかあってはならないということだ。
戦争はどちらかの「ともだち」に加担した瞬間に当事者となる。
愛と勇気の二項だけが、判断基準でなくてはならないのだと思料する。
ここまで重圧を背負ってくれているアンパンマンに、自然と「ああ」という感嘆符をつけてしまうのはもはや必然的なことだ。
重圧を背負ってなお、壮大な比喩によって異様に急かされている。
否、「だから」と言う表現から、彼(アンパンマン、あるいはあなた)が、自ら急いでいるのだ。
しかし、そこに焦燥の影はない。
ほほえんでいる。
身体が動くのだ。そのように理由付けされた環境の下で、自然と。
それは次の詩によって説明される。
生きるよろこびを感じるからなのだ。
光る星が消え去る瞬間のような刹那的な需要に応えるように動く身体。
まさに生きる喜び。
夢をまもる彼自身も、夢に向かえている状態なのだろう。それこそが彼の生きる目的、あるいは幸せであるかのように。
ここで、今まで明確にしていなかった敵という概念が突如登場する。
字面通りであれば、敵を見立てると言う時点でこれまでの反戦思想に反するように見える。「どんな」と言う表現も場合によっては危うい。敵を物理的なものではなく、概念と解釈したとして苦しさを感じる。
しかし逆にここに絶妙なリアリズムがあるように思う。
我々は否応にして「敵」がいる中で生きていかなければならない。それは環境上死活問題につき、無視できないものだ。
その中においても、やなせ氏は生きる喜びはあり得ると喝破しているのだ。
これこそが、優しさと夢、生きる目的と幸せのアウフヘーベンに思えてならない。
最後のサビというのはやはり最も大事にしていることを伝える場所である。
やさしさ、そして夢を守ること。
アンパンマンを応援することで、間接的に子ども、ひいては全ての存在の夢や目標を応援しているのだ。
我々がなんのために生きるのか、その輪郭だけでも掴めてきたのではないか。
明日も、いきるよろこびを噛み締めることにしよう。
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