【読書メモ】サピエンス全史

今では常識になりつつありますが、貨幣や宗教、科学、思想といった、今の社会を形作るものはすべて虚構であるという事実を、我々人類(ホモサピエンス)の歴史から解説する書籍です。

本書を読み終わるころには、現在の社会に感じる違和感の正体を言語化できていることでしょう。

本書が話題になるということは、それだけ多くの人に今の社会や幸せの価値観に漠然とした疑いがあるからだと思います。

必読の2冊です。

以下、読書メモです。

認知革命

元々アフリカで細々と暮らしていたホモサピエンス(人類)は、「虚構」の力をもって集団の力を手にし、食物連鎖の頂点へ立ちました。

生物には連携や社会・組織構築の為に、本能(DNA)として同種で協力する機能が備わっています。

ホモサピエンスはある日、いわゆる認知革命が生じ、「虚構」を用い始めたことで、本来長い年月をかけて習得するべき、社会的機能を擬似的に創造しました。

この時点で猿から人間へと変化しました。

その変化は周囲の環境・生物においては極めて加速した速い進化だった為、他の生物は本能的な警戒や対策を取ることができませんでした。

この認知革命後、ホモサピエンスの拡大による狩猟採集の影響で、多くの生物が絶滅しました。

農業革命

ホモサピエンスが用いた農耕は、単一面積当たりの食料を莫大に増やし、人類の拡大に役に立ちました。

一方で、今までの狩猟採集に比すると、格段に自由度がなくなりました。

農耕が始まる以前は、狩猟採集にあたり、どこに何があるか、どうすれば食料を得られるかという知識はほとんど本能的に備わっており、かつ雑食だったので、1日に労働として活動する時間は数時間ほどでした。

ですが、農耕が始まってからは、小麦や米・トウキビなどの農耕対象に付きっきりで面倒を見なくてはならなくなり、また自然の猛威(気候・干ばつ等)に大きく影響を受ける羽目になってしまいました。

さらに、その分余暇も少なくなり、農耕作業で肩こりや腰痛を抱えることになりました。

加えて、狩猟採集の知恵は本能的に薄れ、農耕を捨てるというような後戻りが効かなくなりました。

個々人の幸福を目指して、人類は農耕を始めたのであれば、これは明らかに失敗でした。

人類の統一

人類は集団の力を発揮するための「虚構」を使って、ヒエラルキーや人為的な差別を生み出しました。

本来生物学的には何の差違もないにも関わらず、「人類の拡大」に有用であるというだけで、実に都合のよい概念を作り出してきました。

人種差別(アパルトヘイト、ホロコースト)、ヒエラルキー、男女差別は共通の真実味をもった概念として、長く存在しました。

今でこそその格差の常識は変わってきていますが、人種差別撤退の宣言が出されても教育を受けていなかった世代が、ホワイトカラーとしてすぐに働くことはできず、それがゆえにやはり劣った人種なのだと人々に誤解を深めるという矛盾は、ごく最近(もしくは今もなお)生じています。

しかし大きく歴史的に見れば、人類は多様性から統一の方向へ進んでいます。

他の文化の影響を全く受けていない文化など存在しないのです。

貨幣制度

貨幣制度という虚構は、文化の違いを超越して、共通の価値を生み出す(統一)ことに大きな役割を担いました。

例えば金などは、実用的にいえば全く使えません。

食用にならないし、柔らかすぎて道具にも使えませんが、国のトップの烙印を押すのには役に立ちました。

権威の烙印を押すことで共通の価値(虚構)を担保することができたのです。

ある国で流通通貨として金が貴重になったら、貿易商人は、他の国で金をとり、需要のある国で売れば、それだけ儲けることが出来る。

そのような操作により、結局両国での需要と供給は等しくなり、貨幣の価値の共通性は保たれてきました。

宗教

宗教も虚構です。

キリスト教もイスラム教も仏教も儒教も、元々は世界を理解するための教えとして広まりました。

ですが、時代の権力者に利用されるにつれ、本来の意図とは異なるものになり果てています。

同じ宗教ですら、カトリック・プロテスタント、浄土宗・真言宗、スンニ・シーアのように意見が対立しています。

今最も世界で広まっているのはキリスト教ですが、なぜキリスト教が信じられたかはその時代の確率論的にしか論じることはできません。

人間が選ぶものは必ず誤謬が付き物で、なおかつ客観的な自然選択に従うとは限らないからです。

当時の記録から、当時の「結果」は知ることができても当時の人々の気持ちや思想は計り知れません。

自然的な必然性はなく、たまたまこの虚構が拡大にフィットした、ということになります。

帝国主義

歴史に登場する帝国主義は、その極めて強欲的な思想で、まだ知らぬ大陸や地域に対して侵攻を試み、その過程で様々な技術(造船、航海術、医学、地理学等)を発展させることに寄与しました。

単に兵力だけではなく商業に力をもたせることができたのです。

ですがその代償は大きく、植民地の入植者と現地民との間で生じる差別が本質的にはびこることとなりました。

ナチス同様、劣勢の血が現地民に流れているという差別主義的な物語が、当時は常識となっていました。

科学と繁栄

現在人類は、科学至上主義、人間至上主義および資本主義(消費主義)といった宗教に取りつかれています。

中世時代は、経済が停滞していて、かつての黄金期を取り戻せというスローガンのもと、変わらない閉塞的な社会構造になっていましたが、近世になってから、数々の産業革命が生じ、永久の進歩を志すような社会となりました。

変化・改革を是とし、今や一番の保守的な党でさえ、現状の変革・改善を多く公約に掲げています。

この価値観は、近年の科学に対する期待とそれに応えて発展してきた科学の恩恵を受ける世界に基づいています。

科学はお金が必要ですが、人間の実利に対する研究でない限り、国からの助成金はもらえません。

科学と政府、資本主義は緊密に関連しあって、現在の社会を形成しています。

産業の推進力

中世までは、太陽エネルギー→植物→動物→人間→筋肉→運動エネルギーの流れでしかエネルギーを変換できませんでした。

それが現在では熱エネルギーから運動エネルギーへの変換(蒸気機関)に始まり、次々にエネルギーを変換する技術が生まれました。

最初に火薬を発見してしばらくは、焼夷弾程度にしか使われず、大砲が戦争に使われるまで数百年かかりましたが、蒸気機関から機関車が登場するまでに100年もかかりませんでした。

突飛な技術発展のチャンスが登場しても、直感的に応用可能な技術にするには人類の集団的なマインドブロックがあったのですが、ひとたびその可能性が示されると、そのブロックが外れ、加速度的に技術が発展しました。

産業革命です。

資本主義

政府は企業から大量の税を徴収し、それを民間の低所得の福利厚生等へ回しています。

ですが、そうではなく企業自身が、税で徴収されるはずだった資本を再投資し、公共の福利厚生や多くの雇用を生んだ方がよいのではという考えもあります。

確かに企業は進歩や利益を志しているため、無用な公共福祉等は生まれず、社会的に最も効率がいいのではという考えもありますが、しかし大抵にして実際に利益至上主義に走ると、人権無視、ブラックと呼ばれるような状況になりかねません。

ある程度の政府による法の締め付けは必要なのかもしれません。

現在は需要に対し供給が上回る歴史上はじめてのタームになっています。

このタームでは、需要を上回るペースで次々に消費しなければ(今本当に必要のないモノも買う)経済が安定しません。

倹約主義の思想から、消費すればするほど善とされる消費主義へと変遷してしまったのです。

そうなると、資源とエネルギーが枯渇するのではないかという心配が良く取りざたされるが、大抵の場合、新たなエネルギーの発見、活用化、既存エネルギーの効率化によって賄えています。

根源のエネルギーたる太陽エネルギーの供給量からすると、現在のところまだほとんど使えていません。

ゆえに資源エネルギー枯渇問題は問題ないとしています。

問題はむしろ、抽象力の低い人間至上主義による、環境破壊であるとしています。

人間以外の多くの種が絶滅している現状があります。

環境破壊が進むと、人間にとっても生存に向かない環境になる恐れがあるのです。

核と平和

国際社会が緊密になればなるほど平和は維持されます。

もはや独断で戦争をおこすことは不可能です。

核保有の均衡が取れている状態で、戦争を仕掛けることは、自殺行為に等しいのです。

幸せとは

宗教、科学、産業、市場と、これほどまでの進歩において、人間は幸せになってきたのでしょうか。

どうでしょうか。

人間はホメオスタシスがあるため、現状にすぐ満足しなくなります。

加えて、現代社会では、生存に必要なくなったことでも、本質的に求める欲求が存在します。

乳牛を例にとると、生まれてから母牛と引き離され、身動きもとれないケージにしまわれ、病気にならない予防接種を受け、常に満腹になるような餌を供給されます。

客観的には生存に関わる欲求はすべて満たしていますが、母牛から離れたことでストレスを感じる牛もいます。

なぜ子牛が母牛を求めるかというと、子牛は母牛の乳がなければ死んでしまうからだという、生物学的な理由があるのです。

それは別の要因(供給される餌)で満たされていても、変わらない本能です。

どんな生物であれ、そういった本能は持ち合わせており、そういった欲求をもちます。

乳牛が畜産の環境に遺伝子レベルで適応するにはあまりに期間が短すぎたのです。

人間とて同じで、いかに周りが豊かになったとしても、コミュニティを求める本能は変わっておらず、その意味で幸せの定義は考える必要があります。

ブッダの教え

仏教は人間の幸せについて一番追求した宗教であるといえます。

欲求とは波のようなもの(諸行無常)であり、それを追いかけて達成しても、必ずそれは終わります。

苦しみの感情も同様です。

ではそれを追い求める事を止めることが一番の幸せではないか?

感情のよる波を一生追いかけて(特定の感情を渇望する)くたびれるのではなく、浜辺にどっかと座った時の何と穏やかなことか!

というのが仏教の考えになります。

これは「幸せは自分の内なる心から発現する」といったニューエイジ諸カルトと、外部の要因に依らないという点で一致しますが、内部の感情も追い求めないとい点で、その諸カルトより深淵で価値があります。

ただ、感情をみるだけ。ただ、あるというだけ。

追い求めてはいけないのです。

先人の知恵を借り、虚構から脱した視点で、今一度幸せとは何かを再考するべきなのです。

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