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何もないプレゼント

「これあげるね」

「これは何のプレゼント?」

「何もないプレゼント」

姪はおままごと中に言った。

presentの語源はラテン語で「あらかじめそこにある」ということ。

あらかじめそこにあるのに、ないもの。

そこに贈り物が存在していることを彼女は認識しているが、物理的にはそこにはない。

また、物理的にそこにないこと自体も、彼女は認識している。

ゆえに、「何もないプレゼント」と表現した。

彼女は3歳だったが、それはむしろ、形而上学的にのみ存在する何かを素直に表現していると考えられるだけ、思考が純粋な年齢ではないか。

ではその何もない何かは何なのか。

何かは贈り物である。プレゼントである。

少なくとも姪はプレゼントとして相手に贈ろうとしている。

つまり贈ろうとする意志がそこに発露している。

我々の生きる世界では、贈るという意志が物理的な事象に先行して発露し、その意志に従属して、贈り物が身体の動作によって動かされ、相手に届く。

すなわち、意志の後に付随する物理的な事象は結果に過ぎない。

意志を支配している意識こそがその人の世界そのものであるなら、たとえ結果の物理的な事象が消失したとしても、贈ったという意志はその世界に明確に存在することになる。

彼女は身体の感覚器を通して物理の世界を体現してからまだ3年しか経っていないのだ。

プレゼントにおける、物理の世界へのプライオリティが大多数の大人よりも低いという仮説を呈すると、「何もないプレゼント」はあり得る。

「子どもは見える」と、冗談混じりに皆言うが、実は、大多数の大人が見えなくなった、もっとずっと根源的な世界が見えているのかもしれない。

「何もないプレゼント」は、そうしたつまらなくなってしまった大人への、啓蒙的な贈り物なのだと信じる。

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