見出し画像

特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第7回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

⑦更地から立ち上がる建国神話 「祖国」が生まれるとき


★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。

祖国の想像力は「更地」から生まれる

井上 太平洋戦争後の更地さらちとなった東京で敷島たち赤の他人同士が出会い、コミュニティーをつくり、チームとなり、家族をつくりました。大戸島の出来事に囚われ心を閉ざしていた敷島は再びゴジラと向き合う事態になり、ようやく未来を見出します。

 これは祖国が立ち上がる過程であり、建国神話の再演ともいえます。

坂元 おお、ここで祖国が来ました!『未来の戦死に向き合うためのノート』でも出てくる重要ワードでしたね。

 この、命のタスキを託される感覚を、私は祖国の想像力を呼びたいと思います。国家が、支配―被支配を軸とする非対称的な権力関係だとすれば、祖国は、命のタスキリレーを軸とする連続的な継承関係です。国家が祖国の想像力を利用することもありますが、逆に、祖国の想像力が国家への批判原理にもなりえます。

『未来の戦死に向き合うためのノート』171頁

井上 お待たせしました(笑)。ここ2年ぐらい、ウクライナ関連の取材を受けたときには、「祖国」という言葉をとくに意識して使うようにしてきました。他国の侵略から自国を守るために人びとの心をつなぐ合言葉だからです。

 ただし、学問的に共有された定義というのはないので、ここでの祖国論は私の試論としてお読みいただければと思います。

 祖国は「想像力」や「物語」の次元にあるもので、国家や政府といった権力関係や統治機構とはイコールではありません。祖国の想像力のベースには、先人が大切に育んできたものを受け継ぎ、豊かにして次の代に託すという継承の物語と、それを守るために戦った死者の記憶があります。これが「命のタスキリレーを軸とする連続的な継承関係」ということです。

坂元 祖国、先人、継承、死者……、いかにも右派が好きそうな考え方に思えますが、そうではないのですよね。

キーウ近郊を視察するゼレンスキー大統領(2022年4月4日)

井上 そこは大事なポイントです。「祖国」は本来、左右関係なく使われる言葉です。祖国解放とか祖国復帰といった文脈ですね。

 継承の物語はともかく、死者の記憶、と聞くとギョッとするかもしれません。戦死者に限らず、広い意味での「あの世にいる先人たち」のことだと思ってください。 

 親から子へ、またその子へと命をつなぐこと、さらに生物学的な意味での命ではなく、地域や団体、会社や業界の文化や遺産を継承していくことも命のタスキリレー。だから、赤の他人同士も命のタスキをつなぎながら、自分たちの社会を支えているといえます。

 ただまあ、普段は命のタスキに無自覚なことが多く、その想像力もせいぜい身の回りの、ごく限られた範囲にしか及びませんよね。

 それが、ゴジラのような巨大生物が襲来したときに、覚醒する。すなわち、一人ひとりが、国レベルの継承の物語にコミットし、それを守るために戦った先人の系譜に自らを重ねていく。そのときです、祖国が立ち上がるのは!

坂元 海神作戦に際して、敷島から明子へ、あるいは秋津から水島に「命のタスキをつなぎたい」という気持ちが生まれて「未来」が見えました。単に現在住んでいる場所や所属する「国家」ではなく、未来を託すために守る場所として「祖国」が生まれる瞬間ですね。

 こうした祖国の物語は世界中にあります。君主制であれ共和制であれ、建国の由緒を示す物語や勇敢に戦った父祖を称える歌を通して、守るべき祖国の価値を伝えます。

 例えば、20世紀初めに独立運動の歌として広まったアイルランド国歌「兵士の歌」には、祖国を何から・誰が守るべきかがしっかり盛り込まれています。

【アイルランド国歌(兵士の歌)】
1番
我らは歌う 兵士の歌を
我らを鼓舞し 激励するリフレイン
燃えさかる火を囲む 我らの頭上には
星々を散りばめた天界
来る戦いに心がはやる ただ暁の光を待つばかり 
夜の静寂の中で 
我らは歌うのだ 兵士の歌を

〈コーラス〉
我ら兵士 アイルランドに命を捧げし者
荒波の彼方から馳せ参じた者もあり
自由のために 祖先が築きし我らがアイルランドは
もはや専制君主の庇護は受けぬ 隷属もせぬ
今宵我らは この危険地帯に戦闘態勢を敷く
エリンがため、災いがあろうとも幸あろうとも
大砲の爆音をあげ ライフルを轟かせる
我らは歌うのだ 兵士の歌を

2番
緑なす谷で 屹立する岩山で
我らの父祖は 我らに先駆け戦った
誇り高く我らの頭上にはためく
この慣れ親しんだ旗の下で勝利を収めたのだ
我らは 戦士の子ら
不名誉とは無縁の種族
敵に対峙せんと進軍するとき
我らは歌うのだ 兵士の歌を
(コーラス)

3番
ゲールの息子らよ! ペイルの男らよ!
待ち焦がれていた日は来たれり
イニスフェイルの隊列が
暴君を震え上がらせてやるのだ
我らが野営の火が燃え尽きる
見よ 東に銀光が射すのを
彼の地に忌敵サクソンが待っている
今こそ我らは歌うのだ 兵士の歌を

(和訳:坂元希美)

 この歌を歌う「我らWe」は「兵士Soldier」です。我らを、勇敢な父祖たち(Our fathers)の命のタスキを正しく受け継ぐ者に位置づけるフレーズは2番に出てきますね。父祖は我らと同じ「慣れ親しんだ旗the same old flag」のもとで戦い、敵に打ち勝ってきたのであり、我らは彼ら「戦士の子children of a fighting race」なのであると。

井上 これはわかりやすい! たんに「団結して敵と戦おう!」というのではなくて、「それを守るために戦った死者の記憶」を呼び覚ますことで、アイルランドの人びとの祖国の想像力のスイッチが入るのですね。

ベルファストにある1916年のイースター蜂起を記念する壁画(photoMiossec)

 ちなみに、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は大変戦闘的で勇ましいことで有名ですが、最後の7番は「我らは先人と棺を共にする」と歌い、勇敢な父祖たちの正統な継承者であることを誇るのです。

 戦争というのは国家が命令して行うものですし、軍隊の規律は厳格な階級制によって成り立っています。けれども、そうした「上から」の強制力だけでは士気は上がらないから、祖国の想像力で補完する必要がある。ウクライナのゼレンスキー大統領の演説などは、そこが大変に巧みですよね。

「国家が祖国の想像力を利用する」のは、戦時だけでなく、大統領選挙や君主の代替わりなど国家の存立に関わる出来事でも見られます。

坂元 なるほど、アメリカ大統領選挙(2016年)でドナルド・トランプ氏が “Make America Great Again”(もう一度アメリカを偉大な国にしよう)を壇上から繰り返し呼びかけたのも、またイギリスのエリザベス女王の国葬(2022年)やチャールズ新国王の戴冠式(2023年)などの荘厳な儀礼も、いずれも祖国の想像力に訴えるものでしたね。

アリゾナ州の支持者集会で演説するドナルド・トランプ氏(2016年3月)

井上 祖国の想像力においては、国家からの命令も軍隊内での階級もありません。「我ら」は上からの命令ではなく、自らの意志で立ち上がる。我らは階級で隔てられることなく、みな同じく、勇敢な父祖たちの命のタスキを受け継ぐ者である。

 その意味では、祖国の想像力は「更地」から生まれる、といってよいかもしれません。

旧体制を更地にする「内閣総辞職ビーム」的なもの

坂元 トランプ氏とゴジラを同じに扱うのはたいへん不本意なのですけれど、確かにどちらも更地にする威力があります。ゴジラは上陸して歩き回るだけで破壊力抜群ですから、首都のど真ん中に物理的な更地を作り出せます。

 統治機構への影響というと《シン・ゴジラ》のいわゆる「内閣総辞職ビーム」(※)があります。これにより、首相・閣僚ら、国家行政の最高機関が一気に更地になってしまった。

※ 劇中で首相官邸に迫るゴジラが放った光線が、避難のために首相らが乗るヘリコプターを直撃。首相と閣僚11名が死亡したため。

井上 「内閣総辞職ビーム」はすごかったですね(笑)。

《シン・ゴジラ》は「政」と「官」が連携して、「軍」を指揮し、「民」の力を集めながら、まさに挙国一致で日本を守っていく物語です。実際に政府の中で仕事をしている人たちの心に火を付けたはずです。

 映画の前半は会議室が中心です。多種多様な会議が次々と開かれ、情報共有と関係機関の調整をおこなっていきますが、各方面への配慮や忖度に縛られて身動きが取れない……という、まさに日本政府の戯画化だと思うのですけれども、「内閣総辞職ビーム」によって既存の指導者たちが一掃され、若手中心の機動的なワンチームになる。

坂元 あの、あっけない一掃から始まるのですよね。

井上 若手中心のタスクチームは、「ビーム」の前からキビキビと動いてはいるんです。でも指導者たちの調整会議がネックだった。

内閣府立川災害対策本部予備施設(photo: Doricono)

「ビーム」の後、従来型の会議は一掃されます。官邸機能を立川に移して若手官僚や政治家がワンチームとなり、各自の得意を活かして力を発揮できるようになる。関係機関の調整や忖度ではなく、生身の人間の志と信頼が他者を巻き込み、動かしていく。頼もしいリーダーはいても、上から命令するのではなく、メンバーの力を引き出し、結果につなぐことに徹している。あれもじつに尊くて、涙を誘います。

 ともかく、あとから振り返ると、たしかに「内閣総辞職ビーム」が転機になっていますね。結局、いったん更地にしないと本当のチームはできなかった。

坂元 なんだか、そのままリーダーシップやチームビルディングの教科書になりそうですね……。ただ、問題は「ビーム」です。当時、民間企業に勤める30代くらいの人たちは「うちも、ああならないかなあ」と言っていましたよ(笑)。

井上 おじさんビジネス用語にも「ガラガラポン」というのがありますが(笑)、小手先ではなく、もっと根本から更地にしたいと。ゴジラに破壊してもらわないと、この国(うちの会社)はなかなか変われないという実感なのでしょうかね。

坂元 現実にあったこととしては、太平洋戦争で多くの都市が焼け野原になったことを受けて、日本政府は1945年12月に「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定しました。財政難などによって大幅な縮小見直しになったものの、この戦災復興計画で整備された東京のインフラは現在の基礎となっています。

 大正時代にも関東大震災後に復興計画によって都市整備が計画されましたし、震災や戦災で更地になったときが新しい国づくりの契機となってきた歴史があります。スクラップ&ビルド、しかも災いでできた更地というマイナスからの復興でした。

関東大震災後の両国国技館(1923年)

井上 海神作戦も、日本政府も米軍も関与しないという権力・武力の空白状態そのものが「内閣総辞職ビーム」に匹敵する設定で、それが民間の本気の力を引き出す契機になりました。

坂元 私がゴジラファンとして《ゴジラ-1.0》に持つ違和感は、そこにあるんですよね。空白や更地はゴジラによってもたらされなければならないのに! と、どうしても思ってしまいます。

井上 あー、たしかに《ゴジラ-1.0》では、権力・武力の空白状態を作り出したのは、ゴジラではなくて、敗戦と占領でしたからね。

 ただ、どちらにしても、空白や更地は「外」から与えられるものであって、私たち自身が「内」から作り出した状況ではない。ゴジラファンの方には申し訳ないですが、物語の構造としては同じに見えてしまう(笑)。

 そのうえで、祖国の想像力のスイッチを入れる契機が、いつも「外」からやってくる、ということには、ちゃんと意味があると思っているのですよ。

坂元 えーっと、祖国というのは主体的なものとばかり思っていましたが、それが立ち上がるきっかけはつねに「外」からやってくると……?「外敵が内部の一致団結をもたらす」とよくいわれますが、もしかして、この話が専守防衛につながると!!

 次回は、なぜ日本だけがゴジラに更地にされてしまうのか。何故、なす術を講じられないのかを考える「⑧なぜか日本だけに襲来するゴジラ 専守防衛を戦え!」をお届けします。

著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

過去記事はこちら

各記事は、マガジンにまとまっています

あわせてお読みください