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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第1回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

①イントロダクション 特攻文学とは何か

 2024年は日本が誇るキャラクター「ゴジラ」の生誕70周年です。昨年11月、シリーズ通算30作目となる《ゴジラ-1.0》が公開されました。山崎貴(1964年生)VFX・脚本・監督による太平洋戦争末期から敗戦直後の日本を舞台とした作品です。

 日本では公開後、2週連続で映画ランキング1位を獲得、24年1月12日には世界興行収入が140億円を突破しました。アメリカの邦画興行収入歴代2位を記録し、イギリスとアイルランドでは累計興行収入ランキングで1位を記録するなど世界的な話題作となりました。第47回日本アカデミー賞では優秀作品賞をはじめ12部門で受賞。アメリカの第96回アカデミー賞では視覚効果賞にノミネートされました。(発表は日本時間3月11日!)

《ゴジラ-1.0》は、第一作《ゴジラ》で登場した1954年から9年前の1945年前後が舞台となっています。太平洋戦争末期、敗戦の色が濃くなっていた時期。小笠原諸島に位置する大戸島の守備隊基地に不時着した特攻隊員・敷島浩一(演:神木隆之介)が偶然、ゴジラに遭遇したところから物語は始まり、“特攻の生き残り”として戦後を生きていく……。

 この設定を知って、いても立ってもおられず映画館へと足を運んだのは、2021年に『特攻文学論』(創元社)を上梓した井上義和。見終えて「これは特攻文学の新しい形ではないか?!」と思ったものの、それを語る相手がおらずモヤモヤと23年を終えました。

 一方、院生時代に井上と同じ研究室に所属していた縁で前著『未来の戦死に向き合うためのノート』(創元社、2019年)の著者インタビューをしたライターの坂元希美は、子どもの頃から大のゴジラファン。巷で話題になっているし、チェックしておくかと軽い気持ちで友人と映画館へ。帰宅するなり井上に「びっくりです、あれは特攻文学じゃないですか?」とメールしました。

 そして新年早々に、特攻文学という切り口で思うところをオンラインで3時間半にわたって語り合い、この作品が特攻文学(映画や漫画を含む特攻モノ)として非常に新しく、またすぐれているということで意見が一致したのでした。

 第1回はイントロダクションとして、「特攻文学とは何か」についてお届けします。

現在の日本で変化する「特攻」の受容


坂元
 まず、特攻とは何かということを確認しておきましょう。『特攻文学論』から引用します。

 特攻とは、太平洋戦争末期にフィリピンや沖縄近海にて敵艦隊への体当たり(特別攻撃)作戦として陸海軍で組織的に展開された、あの特攻です。航空機による特攻作戦が有名ですが、桜花、回天、震洋、伏龍などの特攻兵器、戦艦大和による海上特攻もあります。特攻隊員の多くは一〇代後半から二〇代前半の前途有為な若者たちでした。
 特攻の悲劇は、広島・長崎の原爆や沖縄の地上戦などの悲劇とともに、戦後多くの作家によって文学作品に昇華されてきました。ただし、特攻の物語では「祖国のために命を捧げる」という大義をめぐる個々人の葛藤や決断や行動が焦点化されるので、「無辜の市民が大量殺数された」原爆や沖縄地上戦とは、悲劇の質もおのずと違ってきます。

『特攻文学論』(6頁)

 井上さんは前著『未来の戦死に向き合うためのノート』で、特攻隊の若者たちが残した辞世の句や家族に宛てた手紙などに感動し号泣する人たち、自己啓発などに利用する人たちが、とくに2000年代以降に増えてきたことについて問題提起をされましたね。特攻の歴史的な事実関係はもちろん重要ですが、その社会的な受容のあり方についても、もっと注意を向けるべきだと。

井上 その通りです。まず、歴史的事実と社会的受容を区別すること。この区別が曖昧だと、特攻文学の想像力を「事実はそうではない」とか「美化している」と切り捨てることになります。

 そのうえで、社会的受容においても、平和教育的な受容と自己啓発的な受容を区別することが重要です。これまで、学校教育や報道においては「二度と繰り返してはいけない」「戦争の悲劇」を強調する文脈が支配的でした。これが平和教育的な受容です。それに対して、百田尚樹氏の小説『永遠の0』(2006年。2013年に映画化)が感動と号泣を呼び起こす作品として社会現象を巻き起こしたときに、特攻モノの作品を受容する文脈が変わったと思いました。それが、自己啓発的な受容です。

「僕は号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえた。が、ダメだった」

児玉清による『永遠の0』講談社文庫版の帯文より

坂元 平和教育的な受容と自己啓発的な受容の関係は、左と右(リベラルと保守)の関係とは違うのですか。百田氏は右派の論客としての顔も持ち、最近も政治団体「日本保守党」を立ち上げましたけれど……。

井上 違います。『永遠の0』現象を日本社会の右傾化と安易に結び付けるのは、左派(リベラル)の悪い癖です。そうではなく、特攻の歴史の受け止め方が、全否定(左派)か全肯定(右派)かではなく、戦争指導の是非とは切り離して戦死者を包摂できるようになってきたのだと私は考えています。

 例えば、特攻による戦死は無謀な作戦で犬死を強いられた可哀そうな犠牲者だったのか(左派)、それとも祖国を守るために命を捧げた勇敢な英雄だったのか(右派)。そんな左右の対立を乗り越えて、『永遠の0』は戦争指導や特攻作戦への批判と、極限状況下での崇高な人間ドラマを見事に両立させています。だからこそ、戦後の平和教育を受けてきた人も感動・号泣できたわけです。

感動させ、号泣させる創作特攻作品たち


坂元 『特攻文学論』では、実在した特隊員たちの遺書から特攻モノの創作、つまり特攻隊を題材とした文学や映画などサブカルチャーに目を向けられましたね。

井上 はい。特攻の自己啓発的受容の構造を、より分析的に捉えるために、創作特攻文学に着目しました。

 特攻隊員の遺書の言葉は、まるで鋭利なナイフです。80年近くも前の出来事なのに、まるで我がことのように“刺さる”。しかも、かつてより刺さりやすくなっています。太平洋戦争を経験した人たちが少なくなって、リアルな記憶はもちろん時代背景や知識など、かつてなら「鞘」として機能していたものが希薄になっているからだと考えています。いまや、妖しい力を持ったナイフが抜き身のままで目の前に置かれている状態とも言えます。

 自己啓発や研修など「善きこと」に役立てていたはずのナイフは、別の人の手に渡れば「悪しきこと」に使われる可能性もありますから、ナイフを収める鞘を用意し、安全な取り扱い方法を身につけることが必要です。ところがいまの日本社会は、その鞘になるような「言葉」を用意できていないと考えています。

坂元 なるほど。その一方で、ナイフを存分に研ぎ澄ませて多くの人に“刺さり”ながら、凶器には到らないようにできる場所が、文学というわけですね。

『特攻文学論』ではそれをクスリか毒薬か決定不能な両義性をもったパルマコン、とも呼んでいます。しかも「死ぬとわかっていても飲まずにはいられない」もの。よく切れるナイフにはそんな妖しい魅力も備わっているのですよね。

古代ギリシャの伝説「パルマケイアの泉」とは
“その泉の水は大変おいしいので人はこぞって飲みたがるが、このおいしい泉の水を飲むと泉にひきこまれて死ぬという”(『現代思想を読む事典』(講談社現代新書、489頁より)※写真はイメージです

井上 その通りです。特に戦争を知らない世代がつくる「創作特攻文学」は、取材や資料をもとにしたフィクションですが、実体験をベースにした従来の戦争文学とは異なり「刺さる感動」を呼び起こすために周到に設計されています。特攻隊員の遺書が現代人に刺さるのは「意図せざる感動」ですが、創作特攻文学のほうは「意図された感動」です。その感動の再現性を可能にしている条件を分析的に考えようというのが『特攻文学論』でした。

 特攻隊員の遺書はナイフだと言いました。よく切れるし、よく刺さる。危ないけれど触りたくなる。だからむやみに振り回すのでも過剰に警戒するのではなく、その扱い方に習熟しなければならない。特攻文学も同じくナイフなのですが、作者はそれをわかったうえで極限まで研ぎ澄ませて、鞘になる言葉と正しい使い方を模索している。

坂元 創作特攻文学として本書に紹介された作品は、意外に多いですよね。「非体験者による創作特攻文学作品一覧」(47~48頁)には毛利恒之『月光の夏』(1993年)から神家正成『赤い白球』(2019年)まで21作品がリスト化されています。創作特攻文学の歴史は、平成の30年間とほぼ重なっていますね。

井上 ここに挙げたのは小説に限定している(映画のノベライズも含む)ので、小説化されていない漫画やアニメ、ドラマ、映画も合わせるともっと多くなります。けれども小説だけでも、平成の30年間の変化を辿ることが十分可能です。ここでは割愛しますが、『特攻文学論』は、「意図された感動」の普遍的な構造だけでなく、30年間の不可逆的な変化についても分析しています。

坂元 しかも創作特攻文学は令和の時代にも新展開を見せている、と。このリストにある汐見夏衛『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2016年)はもともと小説投稿サイトから誕生した女子中高生向けライトノベルで、TikTokで紹介されたことがきっかけでバズり出したのが2020年(令和2年)、そして若手人気俳優を起用して映画化、《ゴジラ-1.0》の1か月後に公開されました。

 現代の女子高生がタイムスリップして特攻隊員の青年と恋に落ちる“正統派”の創作特攻文学が、戦争を知らない世代ならぬ「戦後を知らない世代」にも十分通用しているのには驚かされました。

井上 そうですね。たしかに「驚き」ですが、『あの花が…』や『永遠の0』の受容のされ方からわかるのは、創作特攻文学に感動するのに、体験も記憶も思想も知識もまったく必要ない、ということです。最近は「歴史修正主義」が話題になりますが、これらの作品では「事実がどう改変されたか」ではなく、「事実を素材にどうオリジナルな物語が創作されたか」が肝になります。

 その物語がどのように人を感動させ、号泣させるのか。おそらく、私たちが大切にしている価値観に深く静かに突き刺さり、前向きに生きていく力を与えてくれること――それが創作特攻文学の神髄ではないかと思うのです。

悲壮でも勇壮でもなく、日常と「地続き」にありながら、私たちを力づける価値観とはなにか。命のタスキリレーの中継者としての使命を果たすことである――というのが私の仮説です。

『特攻文学論』(30頁)

《ゴジラ-1.0》は山崎貴監督の特攻映画三作目


坂元 さて、準備運動はこのぐらいにしておいて、いよいよ本題に入っていきたいと思います。井上さんが《ゴジラ-1.0》を劇場で鑑賞されたのも、特攻隊の生き残りが主人公になっているということで、創作特攻文学としての展開を期待したからなのですよね。

井上 はい。11月に公開されてすぐに、子どもと見に行きました。

坂元 私も12月に見まして、冒頭のようなやり取りになりました。そしてオンラインで1月10日に話して、最終的には井上さんと山崎監督で「特攻文学(特攻モノの創作)とは何か」という対談をしてほしいなあという話になりまして。

井上 はい。もちろんゴジラブームに乗じて山崎貴監督にお会いしたい! というミーハーな気持ちもありますが(笑)、じつは山崎監督にはこれまでも《SPACE BATTLESHIP ヤマト》(2010)、《永遠の0》(2013)など特攻文学ど真ん中の作品があり、今回の《ゴジラ-1.0》と合わせると特攻映画三部作になるのです。にもかかわらず、これまでそういう観点から山崎監督作品を論じる人はいなかったのではないか。山崎監督はもしかしたら特攻の話をしたい(でも誰も聞いてくれない)のではないか……と勝手に想像したのです。

 もし、山崎監督にお会いできたら、聞いてみたいことがたくさんありますし、何よりも30年以上にわたる創作特攻文学の歴史の中で洗練されてきたロジックはもちろん、それを超えるようなロジックも組み込んで、これだけの作品に仕立てたということに感動しました、と伝えたいです。

 でも、その前に創作特攻文学としての《ゴジラ-1.0》をきちんと言語化する必要があるのではと考えました。

坂元 そこで、われわれの対話を整理整頓し、この場をお借りして12回に渡って(予定)読み解きをすることにしました。ぜひ、お付き合いいただければと思います。

次回は、「②ゴジラってなんだ? 井上のゴジラ、坂元のゴジラ」をお届けします。

 著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。