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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第2回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

②ゴジラってなんだ? 井上のゴジラ、坂元のゴジラ

戦死者への負い目がゴジラを目覚めさせる

井上 僕は、ゴジラ・シリーズを全く観てこなかったんです。『未来の戦死に向き合うためのノート』を書いたとき、戦死にどう向き合うのかを思考し続けてきた大先輩である、批評家の加藤典洋氏のゴジラ論(『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』岩波書店、2010年)を読んで、これは面白いと興味を持ったのがきっかけでした。

 そこで私は、加藤ゴジラ論を次のように要約しました。

 しかし、反核反戦の意識だけなら、五〇年間にわたり二八作も作られることはなかった、と加藤は考えます。また、なぜ日本にばかり繰り返し上陸するのかも、説明できなければならない、と。
 そこで加藤が考えた旧ゴジラ論は、戦死者の記憶を中心に組み込んで、次のような構成をとります。なお、加藤自身は「戦争の死者」という表現を一貫して使っていますが、ここでの文脈では「より具体的には戦場に行ってそこで死んだ死者たち」とあるので、戦死者としておきます。

①戦死者は本来、祖国のために死んだ尊い犠牲者であったが、戦後は一転して、間違った侵略戦争の先兵とみなされた。
②この両義性ゆえに、あるいは戦前の価値に殉じた同胞を裏切ったという負い目ゆえに、戦後社会は、戦死者に正面から向き合うことができない。
③その結果、本来身内であるはずの戦死者は「行き場のないもの」として宙吊りにされ、「不気味なもの」となって再来する。これがゴジラである。
④ゴジラが一九五四年から五〇年間にわたり二八回も繰り返し日本に再来したのは、他の怪獣と戦わせたりキャラクター化したりして、それがもつ「不気味さ」を無害化して、戦後社会に馴致させるためであった。

「ゴジラ=戦死者の亡霊」説を唱える論者はこれまで何人もいました。そのなかで加藤の説がユニークなのは、ゴジラを戦後社会が「戦死に正面から向き合ってこなかった」ことの文化象徴と捉えた点にあります。だからこそ、ゴジラの攻撃は、米国ではなく日本に向けられねばなりませんでした。

『未来の戦死に向き合うためのノート』(19~20頁)

坂元 つまり、ゴジラは戦死者の亡霊というよりは、戦死者を宙吊りにしたままの戦後社会の「負い目」が具現化したものである、ということですね。この「負い目」とは、祖国に殉じた同胞を裏切ってしまったという負い目であり、戦死者に正面から向き合えないまま戦後の復興にまい進してきた負い目で、だから繰り返し日本(の繁栄を象徴する東京)に襲来するのだと。

井上 その通りです。で、それに触発されて観たのが第1作の《ゴジラ》(1954年)と第29作の《シン・ゴジラ》(2016年)です。加藤ゴジラ論が秀逸なのは、戦死者を宙吊りにしている社会の「負い目」が希薄になれば、もうゴジラはやって来なくなることを論理的に含意していることです。その意味では、戦後60年を前に公開された第28作の《ゴジラ FINAL WARS》(2004年)が、実質的な最後になります。

 それから12年後に公開された《シン・ゴジラ》は、明確に東日本大震災を意識して作られていましたから、もう戦死者への負い目がゴジラを目覚めさせることはなくなったのだと思っていました。

坂元 なるほど。そうすると、たんに特攻文学の事例のひとつとして観ておこうというだけでなく、加藤ゴジラ論的な「戦死者への負い目」がどう描かれるか確認したいという動機もあったのですね。

井上 はい。今回の《ゴジラ-1.0》の時代は戦争末期から敗戦直後というじゃないですか。わざわざ戦争の記憶がもっとも濃厚な設定にしている。しかも主人公は特攻隊の生き残りです。第1作《ゴジラ》では背景にあった「戦死者への負い目」を、ど真ん中に据えた物語になるのではないか、と当然期待される。これはもう絶対に観るしかないでしょう(笑)。

第一作目《ゴジラ》のポスター。水爆大怪獣映画です。

今度のゴジラは何を背負ってやってくるのだろう

坂元 ですよね。私は長年のゴジラファンなのですが、じつは今回は劇場まで行かなくてもいいかな~と思っていて、配信が始まったらレンタルで観ようぐらいの気持ちでした。理由は、ゴジラの見た目があまり好みではなかったので(笑)。

 でも、いざ公開されると、いわゆるゴジラファンたちからの評価が高くて「国産ゴジラとして、これはいい」「ネタバレになるからあれですが、ストーリーが良かった」というようなレビューを目にしてから気になってしまい、友人と109シネマズプレミアム新宿で観ました。

あのゴジラの後頭部が見える映画館で鑑賞しました(坂元)
(写真:photoAC)

井上 《ゴジラ-1.0》は、僕にとっては期待以上にすごく面白かったのですが、ゴジラファンの坂元さんとしてはどうでしたか?

坂元 「やっぱり設備がいいと、特撮映画って最高!」というのが感想の大部分でした……見終わってから「日本のゴジラ映画として、これはアリなのか?」という疑問がぐるぐるしていて。何と言ったらいいのか、ゴジラでなくても成立したんじゃないかなと感じてしまったのです。あと、どこか《ALWAYS 三丁目の夕日》(2005年)みたいなテイストの映像だなと思って、パンフレットを読んだら同じ監督だったという。

井上 山崎貴監督ですね。観た後で気づくとは、本当にゴジラ目当てだったのですね(笑)。

坂元 いやはや、本当に(笑)。けれども彼の作品なら、と方向性に合点がいきました。

 一緒に行った友人(女性)は感動したようで、「すごく良かった」と何度も言っていましたね。「えっ、なんで? どこが?」と聞きたかったのですがその場ではがまんして、しばらくしたら聞いてみようかなと思っています。他にもアメリカにいるゴジラファン(男性)が現地で観たと知らせてきて、やっぱりすごく良かったと言っていました。

井上 坂元さんは、主人公はゴジラだと思って観ているのですよね。ゴジラ本位というか、ゴジラ目線というか。

坂元 確かにゴジラをメインに捉えています。怪獣同士が戦うシリーズはちょっと置いておいて、よく言われるように水爆実験の落とし子だとか、《シン・ゴジラ》であれば人間にはどうしようもない自然災害として襲来させている、と見る者に感じさせてしまうような存在。人間の原罪のようなものを、地球環境を代表して背負わせているように小学生の頃から思っていました。ですからゴジラ映画を観るときには、今回はいったい何を背負わせるのだろうという点を楽しみにしているのです。《ゴジラ-1.0》のゴジラは何を背負っていたのかしらと思ってしまって。あと、ゴジラのビジュアルがどうにも苦手で……。

ゴジラが登場することで、どんな人間の物語が生まれるか

井上 坂元さんにとっては、まずゴジラありきで、その周りにどのような人間ドラマがあるのかは付け足しのようなものなのでしょうか。

坂元 ゴジラをどう据えるか、何を背負わせるかによって、人間ドラマのほうも変わってくるのではないかしらと。

井上 なるほど。興味の入り口は違っても、最終的にたどり着く地点は、坂元さんとそれほど違わないように思いますね。僕は、最初から戦争絡みの興味でゴジラ・シリーズに入りましたが、やはりゴジラを使って何を見せようとしているのかだと思います。ゴジラという架空の巨大生物に対して人間たちや社会全体がどう向き合っていくのかを、その過程で生じる協力や葛藤のドラマを通して見せる。つまりゴジラは、人間や社会を描くための極限状況という感じがしますね。

坂元 それはよく分かります。

井上 なので、ゴジラを通して何を描こうとしているかの話は坂元さんとはできると思いますが、ゴジラ本体やVFXのディテールについての論評は期待しないでほしい(笑)。

坂元 大丈夫です、それはファンやマニアが見るところなので(笑)。

井上 《シン・ゴジラ》にはほとんど太平洋戦争は出てきませんでしたが、《ゴジラ-1.0》は、あの戦争をそれぞれがどうやって受け止めて、乗り越えて、終わらせるかというのがキーになる物語になっています。

 先ほど、戦争の記憶がもっとも濃厚な時代設定、と言いましたが、たんに過去の出来事の記憶が鮮明というだけではありません。辛すぎる出来事を受け止められない、「正面から向き合うことができない」状態がまずある。それに対して、《ゴジラ-1.0》では忘れるとか受け入れるといった言葉ではなく、「終わらせる」という言葉が繰り返し使われていたのが印象的です。

坂元 生き延びた英雄が何かをするのではなく、戦後を生きていく兵士や一般市民がどのように傷ついたかということは、とても強く表現されていたと思います。

 ゴジラって、見る側の下地がどうなっているかというのがすごく重要だと思わされるのですよね。第1作《ゴジラ》であれば、観客はほとんどが戦争体験者だったでしょう。「また疎開するのか」なんてセリフがあったりします。《シン・ゴジラ》では東日本大震災の経験が私たちに既にあって、なすすべも無い強大な災いとしてのゴジラを感じることができた。《ゴジラ-1.0》の主な観客は戦争体験者の子世代や孫世代ですから、語り継がれた戦争体験を下地として持てていたのではないかと思います。

 近年、日本でも世界でも兵士のPTSDが引き起こす依存症や暴力の問題、それが周囲に大きな影響を与えてきたことがあらわになってきましたから、戦闘や空襲などを経験した人々が口にはしなくても、大きく傷ついてきたことは理解しやすくなっているでしょう。

心的外傷後ストレス障害(PTSD:Posttraumatic Stress Disorder)
生死に関わるような体験をし、強い衝撃を受けた後で、その体験の記憶が当時の恐怖や無力感とともに、自分の意志とは無関係に思い出され、まだ被害が続いているような現実感を生じる。
(厚生労働省 e-ヘルスネットより)(写真:photoAC)

 現役の戦争体験者はほとんどが世を去り、そういう意味では、太平洋戦争そのものというより、体験者がどう生きてきたかという「社会の記憶」が大事な土台になっているのかなと感じました。

戦争を「生き残ってしまった」者たちが織りなすドラマ

井上 これは生き残りたち、サバイバーの物語なのですよね。登場人物たちは、過酷な戦時下をなんとか生き長らえることができた反面、大切な仲間や家族を失って、「自分だけが生き残ってしまった」という負い目の感覚を持つところから、物語が始まっている。

坂元 いわゆるサバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt、生還者が抱く罪悪感)ですね。

井上 はい。とくに多くの仲間を戦地で失った戦中派たちが、この「生き残り者の負い目」を抱えたまま戦後社会を生きていったことはよく知られています。《ゴジラ-1.0》では、それを平板に描くのではなくて、微妙に違う生き残り方のタイプを組み合わせながら、物語を組み立てているのがすごく上手だなと思いました。ここはまた後で論じましょう。

坂元 山崎監督のインタビューを読むと、《永遠の0》や《ALWAYS 三丁目の夕日》、《アルキメデスの大戦》などで戦争や戦後の時代を描くために、たくさんの取材をしたそうです。体験者に直接聞くなどの蓄積があるから、このストーリーになったというようなお話がありました。

「『永遠の0』や『アルキメデスの大戦』など、これまで第二次大戦を題材にした映画を監督するにあたって、さまざまなリサーチを行ってきました。それによって大戦中の日本がいかに人命を軽視してきたかについて、知りすぎるほどに知らされました」

《ゴジラ-1.0》パンフレットより

山崎 僕らの世代はあの時代を体験していないので、映画で描いたことが本当はどうだったのかはわからないですけれども、本で調べただけでなく、特攻隊に入りながら終戦を迎えた方の話なども脚本には入っているんです。僕らは戦争を経験している方たちの話を直接聞くことができるギリギリの世代かもしれないので、間違いがなければいいなと気にしながらつくっていました。

「PEN」2023.12.21

 だから、立体的にストーリーの網を張り巡らせて、どこかで邂逅かいこうしていくという物語が本当にうまくできていると私も思いました。「そんなわけないでしょう」と言いたくなるようなこともなく、個々人の小さな悲劇が組み合わさっていく感じです。

井上 ゴジラ作品に人間ドラマをあまり期待していない人からすると、そうした要素はむしろ邪魔に思えたかもしれませんね。前作の《シン・ゴジラ》とはまた違った、いろいろな種類の感情がかき立てられたと思います。

《シン・ゴジラ》は、最初からゴジラに立ち向かわなければならない若い政治家、官僚たちがワンチームになって、まとまっていく物語で、あれはあれですごく爽快感があったのですけれども。

坂元 「政治プロセスにスポットを当てた怪獣映画なんて、今までなかった!」という面白さがありました。

井上 《シン・ゴジラ》は、まさにポリティカル・フィクションですよね。最近、自衛隊小説を集めて読んでいるのですけれども、自衛隊を運用する場面のリアルを追求していくと、必ずそういう政治的なプロセス(の困難)に突き当たります。

 だいたい日本では敵の侵略を受けたり、重大事件が起こったりした時に政治や行政がなかなか動かない(動けない)。《シン・ゴジラ》は、そこをリアルに描いて見せたというところがすごく面白かったのですけれども、普通の庶民や民間といったものが後景に追いやられてしまって、ほとんど見えませんでした。

 それに対して、《ゴジラ-1.0》には政治家や官僚が全く出てこなくて、しかも、軍隊が解体された後(海上保安庁や警察予備隊が結成される前)なので軍人すら存在しない。ゴジラ映画としてはとても珍しい設定だったのではないでしょうか。

次回は、「③《ゴジラ-1.0》の絶妙な時代設定とサバイバー・ストーリー」をお送りします。

著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

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