【シリーズ「あいだで考える」】古田徹也『言葉なんていらない?――私と世界のあいだ』の「序章」を公開します
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序章 言葉はメディアか、はたまたバリアか
† 「ウイスキー」はウイスキーではないし、「ケーキ」はケーキではない
言葉には匂いがない。味もしない。「このウイスキーは、微かにバニラとキャラメルの香りをまとい、まろやかな口当たりだ」という言葉を聞いても、そのウイスキー自体を味わったことにはならない。言葉はウイスキーそのものではないのだから。
このことをめぐって、作家の村上春樹(1949~)は次のように綴っている。
ウイスキーになじみがなければ、たとえばケーキのことを考えてみてほしい。家の近所に新しいケーキ屋ができた。そこのモンブランを買ってみたら、とても美味しい。次の日、さっそく学校で友達に報告する。マロンクリームがすごく濃厚だけどしつこくなくて、まるで栗を食べているみたい。スポンジもメレンゲもふわっと軽くて、甘さひかえめ。何個でも食べられそうな感じ。——その報告を聞いた友達は、美味しそう、食べたい、と言ってくれる。だが、もどかしい。どんなに言葉を尽くしても、そのケーキの味や口当たりや香りそのものは伝えられない。できることなら、言葉ではなく、ケーキそのものを学校に持ち込みたい。友達と二人で同じケーキを分け合い、一緒に食べたい。それだったら相手に百パーセント伝わる。なんてシンプルで、親密で、正確なやりとりだろう。そして、そんなやりとりができるなら、言葉なんていらないのではないだろうか。
†言葉は本物の影? 不完全な模造品?
「リンゴ」という言葉は、あの甘酸っぱくて赤い果物のことを指す。「痛み」という言葉は、身体に感じるあの感覚のことを指す。しかし、もちろん「リンゴ」は本物のリンゴそのものではないし、「痛み」は本物の痛みそのものではない。だから、言葉とはそれが指し示す対象の影ないしは模造品のようなものだ。しかも、不完全な模造品だ。——古来、多くの人がそういう思いを抱いてきた。
「リンゴ」という言葉は、リンゴ独特のあの風味も、その微妙な色合いも、そして、個々のリンゴの繊細な差異も、すべて曖昧にし、乱暴にまとめてしまう。同様に、「痛み」という言葉は、個々の痛みの内実も違いもすべて平板に塗りつぶしてしまう。世界に存在する個々の物事を「リンゴ」や「痛み」といった言葉に置き換えて抽象化してしまうと、そこでは多くの重要な具体性が捨て去られ、見失われることになる。世界を余すところなく表現するには、言葉はあまりに解像度が低く、粗雑すぎる。——そのように思えるのだ。
あるとき、私はお腹に強い痛みを感じて、「痛い!」と口に出す。側にいた友達が、心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくれる。しかし、当たり前だが、「痛い!」という言葉は痛みそのものではない。私がどんな痛みをどれほど感じているのか、あるいは、そもそも痛みを感じているのかどうか、友達は正確には分からないだろう。また、逆に、友達が「痛い!」と言っても、私には、それが本当のところどのような痛みなのか分からない。友達が「うれしい」と言っても、どんなふうにうれしいのか、どれほどうれしいのか、あるいは、そもそも本当にうれしいのかどうか、私には分からない。
こうしたもどかしい思いは、本物の影ないし模造品として言葉を捉える見方を強める。つまり言葉は、世界のなかにその一部として存在するわけではない——私と世界のあいだに、世界の影(模造品)として存在する奇妙な何かにすぎない——というわけだ。繊細で鮮烈な本物と、それを表す言葉とを比較すればするほど、言葉がそれ自体としては抽象的で、間接的で、空疎な影のように思えてくるのである。
もしも、言葉がそのような、本物を不正確にしか表現できない影ないし模造品であるのならば、それを用いたコミュニケーションはどうしても粗雑で不完全なものになってしまわないだろうか。
†言葉はしばしば誤解や無理解に曝され、悪影響を及ぼす
本当に模造品に過ぎないのかどうかはともかくとして、言葉が誤解されやすいのは確かだ。たとえば、誰かと一緒にケーキを食べているときに、とても美味しいことに驚いて、「このケーキやばい!」と叫んだとしよう。しかし、それを聞いた相手は、このケーキはとんでもなく不味いとか、傷んでいるなどと誤解するかもしれない。
また、「このケーキ、あんまり甘くないね」という言葉も、良い意味で言ったはずが、相手には、甘みが足りないと批判しているように聞こえるかもしれない。こうした理解の食い違いは、短い文字や記号でやりとりをするLINEなどのSNSでも——あるいは、この種のコミュニケーションにおいては特に——よく生じていると言える。
また、現在のSNS空間は、個人の言葉が瞬時に拡散するために、言葉を発した当人が想定していなかった大きな影響を社会に与えてしまうケースが跡を絶たない。たとえばある人が、あるお店の店員の態度に気分を害し、そのお店に対する抗議をSNSに投稿したとしよう。すると、その言葉がたくさん「リポスト(リツイート)」「シェア」「いいね」などをされて拡散し、そのお店に思いがけず非難が殺到したり、逆に、そのお店を支持する人々からの反論や非難が投稿者のほうに押し寄せたりすることがある。たとえ抗議の内容が事実に基づいているとしても、また、非難自体は理不尽なものでないとしても、勢いが度を超してひろがり、言葉を発した当人がその拡大を制御できないという事態がしばしば生じているのである。
†言葉を長く連ねればよいというわけではない
だとすれば、こうしたコミュニケーション上の事故や制御不能な状態が発生しないように、言葉を用いるときには常に事細かに説明を尽くすべきだろうか。しかし、たとえば、「このケーキは今年食べたもののなかで最もよくできている」と言ったとしても、「このケーキやばい!」という叫びほどには驚きや感動は伝わらない。また、「このケーキ、あんまり甘くないね。で、この「甘くない」というのは今はネガティブな意味で言っているわけではなくて、むしろポジティブな意味で言っているんだよ」などと長い補足をいちいち加えていては、聞いている相手を退屈させたりうんざりさせたりすることになる。要は、そのような説明は面倒でつまらないのだ。
一般的に言って、くどくどと長く言葉を連ねることが、自分の思いや事実などを正確に伝えられることにつながるとは限らない。ケーキの味や香りや口当たりを完全なかたちで言い表すことは、どれほど凝った言葉を積み重ねたとしても不可能だし、海と空が融け合う色合いの美しさは、どれほど言葉を付け加えたとしても再現できるものではない。説明しすぎることは、聞き手を飽きさせ、言葉を野暮で余計なものにしてしまう。
また、丁寧すぎる長い言葉は、親密な関係やくだけた場にふさわしくない仰々しいものになりがちだし、時間がかかるため効率が悪く、そして面倒だ。それから、個々の言葉に対する捉え方の違いや、語彙力の違いなどによって、言葉を積み重ねれば積み重ねるほど互いの言っていることが分からなくなってしまう、ということもある。つまり、簡潔な言葉では不足なら、詳細な言葉に置き換えればよい、というわけではないのだ。
†それでも、言葉は欠かせないもの
このように、言葉には、不正確さや不完全さ、曖昧さや不確かさ、つまらなさや退屈さといったものを帯びるおそれがつきまとう。しかし、それでも、言葉は私たちの生活に欠かせないものだ。
たとえばお腹が痛いとき、あるいは、誰かに何かをしてもらってうれしいとき、「痛い」や「うれしい」といった言葉を発することなしに、そのことを他人に分かってもらうのは簡単ではない。また、家の近所に新しいケーキ屋ができたという事実を、「家の近所に新しいケーキ屋ができたよ」といった言葉を用いずに他人に知らせることは困難だ。
しかも言葉は、いったん覚えてしまえば、どんな所にも、いわば手ぶらで簡単に持ち運べる。ケーキそのものをずっと持っているわけにはいかないが、「ケーキ」という言葉であれば、学校でも富士山の頂上でも、いつでも取り出して相手に差し出すことができる。
さらに、言葉は現実を超えた物事を表現することもできる。本当は痛くないのに「お腹が痛い」と言って学校をサボることもできるし、「家の近所に隕石が落ちたよ」と噓を言って友達をからかうこともできる。もっとも、それらの言葉を自分が制御できるなら——つまり、自分の思う通りの効果を発揮して、相手を都合よく操ることができるなら——の話だが。
†慣れ親しんだ言葉に、あらためて目を向けてみよう
私たちは生活のあらゆる場面で言葉を用いており、言葉なしには生きることはほとんど不可能とも言える。しかし、まさにその言葉によって、しばしば生活にトラブルがもたらされる。言葉によるコミュニケーションは、どうにも不正確で不完全なものであるように思える。すなわち、言葉を通して他者と理解し合おうとすると、そこには誤解や無理解の余地、あるいは、想定しなかった影響を生み出す余地が、どうしても生まれてしまうように思われるのだ。
はたして言葉とは、私と私以外の人々とをつないでくれる「媒介物」なのだろうか。それとも、両者を隔てる「障壁」なのだろうか。私たちの可能性を広げてくれる希望なのだろうか、それとも、私たちを縛ったり振り回したりする制御不能な厄介者なのだろうか。そのどちらでもあるのだろうか。あるいは、どちらでもないのだろうか。
本書ではこれから、言葉というもののさまざまな側面を見ていく。その過程で、言葉を用いることにはどのような特徴や落とし穴があるか、言葉とどう向き合うべきかについて、いくつかの重要なポイントが照らし出されることになる。
言葉はふだん、私たちの生活のなかに当たり前のようにあり、あらためて「言葉とは何か?」というふうに注意を向けることは少ない。慣れ親しんだ言葉を見直す作業からは、言葉に対する新しい見方が得られるだろう。そして、それはひいては、言葉とともにある私たちの日々の生活について、私たち自身について、新しい側面を知る機会となるだろうし、何より、言葉が私たちの力となる可能性に目を向ける機会となるだろう。