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【シリーズ「あいだで考える」】古田徹也『言葉なんていらない?――私と世界のあいだ』の「序章」を公開します

2023年4月、創元社は、10代以上すべての人のための新しい人文書のシリーズ「あいだで考える」を創刊いたしました(特設サイトはこちら)。

シリーズの10冊目は、
古田徹也『言葉なんていらない?——私と世界のあいだ』
です(10月29日頃発売予定、書店にてご予約受付中)。
刊行に先立ち、「序章」を公開いたします。

私たちはふだん、世界で起こるさまざまな物事に「言葉」を通してかかわっています。考えや思いを人と伝え合うのにも「言葉」は欠かせません。
しかし一方で、言葉による表現はときに不正確であり、意図通りに伝わらなかったり一人歩きしたりして、誤解やトラブルの元になることもよくあります。「言葉こそが、コミュニケーションがうまくいかない元凶だ」とすら思えることもあるでしょう。
はたして言葉は、私と世界や人々をつなぐ「メディア=媒介物」なのでしょうか。それとも両者を隔てる「バリア=障壁」なのでしょうか。そもそも私たちは、「言葉を発すること(発話)」によっていったい何をしているのでしょうか?
本書はこれらの問いから出発し、言葉の役割を多様な面から見直していきます。いわば、哲学的な視点をもって歩んでいく「言葉の旅」です。その道のりのなかで私たちは、言葉とともにある日常の生活を見直し、ひいては自分自身を見直すことになるでしょう。そして、どうにも扱いにくく、いらいらしてつい粗雑に使ってしまったり、時に暴走させてしまったりしがちな「言葉」にもう少し近づき、親しくなり、人生を共にする友人として楽しくつきあっていくためのヒントを得られるはずです。

装画・本文イラストはつちほうさん、装丁・レイアウトははぎもんさん(シリーズ共通)が担当。土屋さんはもともとアニメーション作家で、オリジナル作品のほかMVやCM、テレビ番組の動画なども多数制作しています。本書では、古田さんの原稿を読みこみ、隠れ主人公「言葉くん」による「言葉の旅」という設定で、動きと広がりのあるユニークな作品をたくさん提供してくださいました。特に装画(=表紙の絵)や1ページ大の大きな挿絵では「切り絵を組み立てた立体作品を写真に撮る」という離れ技を駆使。これについては後日、別の記事でメイキング動画とともにご紹介予定です。土屋さんの作品もまた、本書の醍醐味のひとつです!

現在、10月29日頃の発売に向けて鋭意制作中です。まずは以下の「序章」をお読みいただき、『言葉なんていらない?』へのひとつめの扉をひらいていただければ幸いです。
(なお、文字の色など、実際の紙面どおりには再現されていない要素があります。)


序章 言葉はメディアか、はたまたバリアか


† 「ウイスキー」はウイスキーではないし、「ケーキ」はケーキではない

 言葉にはにおいがない。味もしない。「このウイスキーは、かすかにバニラとキャラメルのかおりをまとい、まろやかな口当たりだ」という言葉を聞いても、そのウイスキー自体を味わったことにはならない。言葉はウイスキーそのものではないのだから。 
 このことをめぐって、作家の村上はる(1949~)は次のようにつづっている。

 もしぼくらのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕はだまってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かにのどに送りむ、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面しらふのものに置きえて語り、その限定性の中で生きていくしかない。
(村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』しんちょう文庫、1999年、12~13ページ

 ウイスキーになじみがなければ、たとえばケーキのことを考えてみてほしい。家の近所に新しいケーキ屋ができた。そこのモンブランを買ってみたら、とても美味おいしい。次の日、さっそく学校で友達に報告する。マロンクリームがすごくのうこうだけどしつこくなくて、まるでくりを食べているみたい。スポンジもメレンゲもふわっと軽くて、あまさひかえめ。何個でも食べられそうな感じ。——その報告を聞いた友達は、美味しそう、食べたい、と言ってくれる。だが、もどかしい。どんなに言葉をくしても、そのケーキの味や口当たりや香りそのものは伝えられない。できることなら、言葉ではなく、ケーキそのものを学校に持ち込みたい。友達と二人で同じケーキを分け合い、いっしょに食べたい。それだったら相手に百パーセント伝わる。なんてシンプルで、親密で、正確なやりとりだろう。そして、そんなやりとりができるなら、のではないだろうか。
 

†言葉は本物のかげ? 不完全なぞう品?

「リンゴ」という言葉は、あのあまっぱくて赤い果物のことを指す。「痛み」という言葉は、身体に感じるあの感覚のことを指す。しかし、もちろん「リンゴ」は本物のリンゴそのものではないし、「痛み」は本物の痛みそのものではない。だから、言葉とはそれが指し示す対象のないしはのようなものだ。しかも、ぞう品だ。——古来、多くの人がそういう思いをいだいてきた。
「リンゴ」という言葉は、リンゴ独特のあの風味も、そのみょうな色合いも、そして、個々のリンゴのせんさいな差異も、すべてあいまいにし、乱暴にまとめてしまう。同様に、「痛み」という言葉は、個々の痛みの内実もちがいもすべてへいばんりつぶしてしまう。世界に存在する個々の物事を「リンゴ」や「痛み」といった言葉に置き換えてちゅうしょう化してしまうと、そこでは多くの重要な具体性が捨て去られ、見失われることになる。世界を余すところなく表現するには、言葉はあまりに解像度が低く、粗雑すぎる。——そのように思えるのだ。
 あるとき、私はおなかに強い痛みを感じて、「痛い!」と口に出す。そばにいた友達が、心配そうに「だいじょう?」と声をかけてくれる。しかし、当たり前だが、「痛い!」という言葉は痛みそのものではない。私がどんな痛みをどれほど感じているのか、あるいは、そもそも痛みを感じているのかどうか、友達は正確には分からないだろう。また、逆に、友達が「痛い!」と言っても、私には、それが本当のところどのような痛みなのか分からない。友達が「うれしい」と言っても、どんなふうにうれしいのか、どれほどうれしいのか、あるいは、そもそも本当にうれしいのかどうか、私には分からない。
 こうしたもどかしい思いは、本物のかげないし模造品として言葉をとらえる見方を強める。つまり言葉は、世界のなかにその一部として存在するわけではない——私と世界のあいだに、世界の影(模造品)として存在する奇妙な何かにすぎない——というわけだ。繊細でせんれつな本物と、それを表す言葉とをかくすればするほど、言葉がそれ自体としては抽象的で、間接的で、くうな影のように思えてくるのである。
 もしも、言葉がそのような、影ないし模造品であるのならば、それを用いたコミュニケーションはどうしても粗雑で不完全なものになってしまわないだろうか。
 

†言葉はしばしば誤解や無理解にさらされ、あくえいきょうおよぼす

 本当に模造品に過ぎないのかどうかはともかくとして、言葉が誤解されやすいのは確かだ。たとえば、だれかと一緒にケーキを食べているときに、とても美味しいことにおどろいて、「このケーキやばい!」とさけんだとしよう。しかし、それを聞いた相手は、このケーキはとんでもなく不味まずいとか、いたんでいるなどと誤解するかもしれない。
 また、「このケーキ、あんまり甘くないね」という言葉も、良い意味で言ったはずが、相手には、甘みが足りないと批判しているように聞こえるかもしれない。こうした理解の食い違いは、短い文字や記号でやりとりをするLINEなどのSNSでも——あるいは、この種のコミュニケーションにおいては特に——よく生じていると言える。
 また、現在のSNS空間は、個人の言葉がしゅんに拡散するために、言葉を発した当人が想定していなかった大きなえいきょうを社会にあたえてしまうケースがあとを絶たない。たとえばある人が、あるお店の店員の態度に気分を害し、そのお店に対するこうをSNSにとう稿こうしたとしよう。すると、その言葉がたくさん「リポスト(リツイート)」「シェア」「いいね」などをされて拡散し、そのお店に思いがけず非難がさっとうしたり、逆に、そのお店を支持する人々からの反論や非難が投稿者のほうにし寄せたりすることがある。たとえ抗議の内容が事実にもとづいているとしても、また、非難自体はじんなものでないとしても、勢いが度をしてひろがり、言葉を発した当人がその拡大をせいぎょできないという事態がしばしば生じているのである。
 

†言葉を長く連ねればよいというわけではない

 だとすれば、こうしたコミュニケーション上の事故や制御不能な状態が発生しないように、言葉を用いるときには常にことこまかに説明を尽くすべきだろうか。しかし、たとえば、「このケーキは今年食べたもののなかで最もよくできている」と言ったとしても、「このケーキやばい!」という叫びほどには驚きや感動は伝わらない。また、「このケーキ、あんまり甘くないね。で、この「甘くない」というのは今はネガティブな意味で言っているわけではなくて、むしろポジティブな意味で言っているんだよ」などと長い補足をいちいち加えていては、聞いている相手を退たいくつさせたりうんざりさせたりすることになる。要は、そのような説明はのだ。
 いっぱん的に言って、くどくどと長く言葉を連ねることが、自分の思いや事実などを正確に伝えられることにつながるとは限らない。ケーキの味や香りや口当たりを完全なかたちで言い表すことは、どれほどった言葉を積み重ねたとしても不可能だし、海と空がけ合う色合いの美しさは、どれほど言葉を付け加えたとしても再現できるものではない。説明しすぎることは、聞き手をきさせ、言葉をで余計なものにしてしまう。
 また、ていねいすぎる長い言葉は、親密な関係やくだけた場にふさわしくないぎょうぎょうしいものになりがちだし、時間がかかるため効率が悪く、そしてめんどうだ。それから、個々の言葉に対する捉え方の違いや、力の違いなどによって、言葉を積み重ねれば積み重ねるほどたがいの言っていることが分からなくなってしまう、ということもある。つまり、簡潔な言葉では不足なら、しょうさいな言葉に置き換えればよい、というわけではないのだ。
 

†それでも、言葉は欠かせないもの

 このように、言葉には、不正確さや不完全さ、曖昧さや不確かさ、つまらなさや退屈さといったものを帯びるおそれがつきまとう。しかし、それでも、言葉は私たちの生活に欠かせないものだ。
 たとえばお腹が痛いとき、あるいは、誰かに何かをしてもらってうれしいとき、「痛い」や「うれしい」といった言葉を発することなしに、そのことを他人に分かってもらうのは簡単ではない。また、家の近所に新しいケーキ屋ができたという事実を、「家の近所に新しいケーキ屋ができたよ」といった言葉を用いずに他人に知らせることは困難だ。
 しかも言葉は、いったん覚えてしまえば、どんな所にも、いわば簡単に持ち運べる。ケーキそのものをずっと持っているわけにはいかないが、「ケーキ」という言葉であれば、学校でもさんの頂上でも、いつでも取り出して相手に差し出すことができる。
 さらに、言葉は現実をえた物事を表現することもできる。本当は痛くないのに「お腹が痛い」と言って学校をサボることもできるし、「家の近所にいんせきが落ちたよ」とうそを言って友達をからかうこともできる。もっとも、それらの言葉を自分が制御できるなら——つまり、自分の思う通りの効果を発揮して、相手を都合よくあやつることができるなら——の話だが。


†慣れ親しんだ言葉に、あらためて目を向けてみよう

 私たちは生活のあらゆる場面で言葉を用いており、言葉なしには生きることはほとんど不可能とも言える。しかし、まさにその言葉によって、しばしば生活にトラブルがもたらされる。言葉によるコミュニケーションは、どうにも不正確で不完全なものであるように思える。すなわち、言葉他者と理解し合おうとすると、そこには誤解や無理解の余地、あるいは、想定しなかった影響を生み出す余地が、どうしても生まれてしまうように思われるのだ。
 はたして言葉とは、私と私以外の人々とをつないでくれる「媒介物メディア」なのだろうか。それとも、両者をへだてる「障壁バリア」なのだろうか。私たちの可能性を広げてくれる希望なのだろうか、それとも、私たちをしばったりり回したりする制御不能なやっかいものなのだろうか。そのどちらでもあるのだろうか。あるいは、どちらでもないのだろうか。
 本書ではこれから、言葉というもののさまざまな側面を見ていく。その過程で、言葉を用いることにはどのようなとくちょうや落とし穴があるか、言葉とどう向き合うべきかについて、いくつかの重要なポイントが照らし出されることになる。
 言葉はふだん、私たちの生活のなかに当たり前のようにあり、あらためて「言葉とは何か?」というふうに注意を向けることは少ない。慣れ親しんだ言葉を見直す作業からは、言葉に対する新しい見方が得られるだろう。そして、それはひいては、言葉とともにある私たちの日々の生活について、私たち自身について、新しい側面を知る機会となるだろうし、何より、に目を向ける機会となるだろう。


『言葉なんていらない?——私と世界のあいだ』
目次

キーワードマップ

序章 言葉はメディアか、はたまたバリアか

1章 言葉のやりとりはなぜ不確かなのか
 1節 私たちは日々「発話」している
 2節 なぜうまく伝わらないのか

2章 記憶の外部化と言葉の一人歩き
 1節 話される言葉と書かれる言葉の違い
 2節 プラトンの懸念は過去のものとなったか

3章 コミュニケーションの二つの方向性
 1節 遠く、多様な人々とのコミュニケーション
 2節 近く、限られた人々とのコミュニケーション

4章 言葉の役割を捉え直す
 1節 ここまでの結論と、ここからの課題
 2節 発話とは、物事のある面に関心を向けること
 3節 言葉を探し、選ぶことで、自分の思いが見つかる

5章 「言葉のあいだ」を行き来する
 1節 ひとつの言語を深く学ぶ
 2節 複数の言語に触れる
 3節 言葉は移り変わるもの

終章 言葉とは何であり、どこにあるのか
 1節 この本でたどってきた道筋
 2節 そこにある言葉を楽しむために

私と世界のあいだをもっと考えるための作品案内


キーワードマップ。簡単な索引を兼ねています。
土屋萌児さんによる装画の撮影風景。ライティングで影をコントロールしています。(土屋萌児さんご提供)


著者=古田徹也(ふるた・てつや)
1979年熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。主に西洋近現代の哲学・倫理学を研究。著書に『謝罪論』(柏書房)『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHK BOOKS)『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)ほか。『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)で第41回サントリー学芸賞受賞。

〇シリーズ「あいだで考える」
頭木弘樹『自分疲れ――ココロとカラダのあいだ』「はじめに」
戸谷洋志『SNSの哲学――リアルとオンラインのあいだ』「はじめに」
奈倉有里『ことばの白地図を歩く——翻訳と魔法のあいだ』「はじめに」
田中真知『風をとおすレッスン――人と人のあいだ』「はじめに」
坂上香『根っからの悪人っているの?――被害と加害のあいだ』「はじめに」
最首悟『能力で人を分けなくなる日――いのちと価値のあいだ』「はじめに」
栗田隆子『ハマれないまま、生きてます――こどもとおとなのあいだ』「はじめに」
いちむらみさこ『ホームレスでいること——見えるものと見えないもののあいだ』「はじめに」
斎藤真理子『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』
創元社note「あいだで考える」マガジン