【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第10回|こころ|石躍凌摩
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第10回|こころ
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思えば私は生まれてこのかた、ひとの心に関心を寄せたことがあまりなかったと、漱石の『こころ』を読んで感動し、それからまた辟易するようにして、そう気付いた。そこが自分の倫理的な弱点であったのだと。そうして、おそらくは心と関わることの不得手なために、そこから逃れるようにして、私は庭に行き着いたのではないだろうか。
ところがここまで庭のことを書き連ねてきて、ようやく私は、そこからひとの心を考えてみたいという気になった。心を避けるようにして至り着いた庭に、思いがけず心が見つかる、あるいは不意にぶつかるといった出来事が、まるで何かの因果のように立て続けに起こって来たのである。
そうして、もとより「すべてのひとに庭がひつよう」ということを本当に言うためには、すべてのひとにおのずから備わっている心を避けては通れないだろう——何かをひつようと思うのは、それについて心が動いたということに他ならないからだ。
そうかといって私は、「すべてのひとに庭がひつよう」と、是が非でも説得したいわけではない。ただひとつ、私にはつぎの言葉が忘れられないのである。
私も後年そのひつように気付いた組であるから、なおさらつよくそう思う。かつてはひとつの興味も惹かれることのなかった庭が、今やなくてはならず、それがなかったかつてのことを、今や思い出すこともむずかしい。つくづくひとの心というのは、どこでどう変わるか知れたものではない。庭を巡っての、そうした心のうつりかわりを、私は今ここに書いてみようと思う。
2
常緑樹は冬時期にあんまり切ると風邪を引くので、と年の暮れから植栽管理を任されることになったとあるアパートの施主にそう伝えると、そうなんですか、と目を丸くしてから、その心は、と問うた彼女の表情が、植物にも人間のような所があることを知ってときめくかに見えて、私はつぎのように答えた。
「落葉樹は暖かくて日のあるうちに養分をためておいて、冬には葉を落として寝てしまう、いわば計画的なタイプなんです。そうして寝ているうちは、多少のことがあっても気にならないんです。これに比べて常緑樹はつど必要な養分を光合成で稼がないといけない。ちょうど人間でいうところのその日暮らしのようなもので、冬は日照りも少ないですから、そこで切られてしまうと余計に痛手なんです。」
などと話を展開する自分をふと省みて、面白くなった。作業に入る旨の挨拶を済ませた後、しばらく黙って植物に向き合っていたかと思うと、その後の施主との会話においては、さっきまで自分が触れていた植物やそれをとりまく環境の側に立ったそこから、今度は人間に向き合う心持になっている。こうした心のうつりかわりのあることは考えてみれば面白く、またそれが日々に少しもないという境遇は考えてみればつらく、それがために私は庭師になることを選んだのかも知れない。
「それから、道路に面した花壇なんですけど、結構ゴミが落ちていて。」
「あの、草が茫々になっていた方の?」
「そうです。よくあることなんですけど、荒れた印象だと余計に引き寄せてしまうのかも知れないですね。全部拾い終わってから、自分の仕事は清掃員やったかなって、思ったくらいです。」
「そんなことまでしてもらって、すみません。」
「いえ、これも庭仕事のうちなので。というのは、庭とゴミって縁が深いからですね。」
「というと?」
「庭を手入れしていると、必ずと言っていいほど何かしらゴミが見つかるんです。例えばどこから飛んできたのかもわからないプラスチックの破片とか、土を掘ればたいてい陶器の破片が出てきます。」
「そう思えば、たしかに」
「他にも、落ち葉はゴミかそうでないかといったことは庭のありよう次第ですし、庭で食べられるものを少しでも育てればそれだけ包装ゴミは減りますし、台所で出た生ゴミを土に還すかどうかということが、果たして地球温暖化に繋がったりもして——だから庭にゴミを見つけると、そのつど傷付いたりもしますけど、同時に張り合いも出てくるというか、あらゆる問題の辺境に、庭があるような気がして来るんです。」
3
それから年が明けて帰省の折に、大阪に居た頃の行きつけの珈琲屋へ、先輩庭師の西田と訪れた。初めてそこを訪れた時のことを、私は今でも覚えている。深煎り珈琲専門と聞こえていたその店に伺うと、メニューには「本日の珈琲」とあって、以下には「ペーパードリップ500円」、「ネルドリップ500円」と書かれている——ということは、つまり淹れ方で選べということか、と私はびっくりしてしまった。豆の種類を選べる店というのはよくあるが、豆の種類はひとつきりで、その持味をペーパーで抽き出すかネルで抽き出すかの違いを選んで愉しむという発想に、珈琲を飲まない前から私は心を掴まれたのだった。一口飲んでからは虜となった。
カウンターの奥の席に着き、お冷やに少しの湯を足したひと肌の水が差し出されるのを見計らって、二人はネルドリップを注文する。ペーパーを注文したことは果たして一度もなかった。それというのもペーパーとは、要は珈琲の持つ独特の旨味をなかばは捨てることではないだろうか。また使うたびに捨てるよりほかに仕方のない紙も出る。この点、ペーパーよりも保管に手間のかかるネルをわざわざ使うというのは、それでも捨てないという心意気ではないだろうか。とそのようなことを、店主の珈琲を抽出するうつくしい所作の節々にあらためて思い馳せながら、二人で話したこともまた、昨年の暮れに遭遇した、花壇のゴミについてのことだった。
「それからゴミがよく目に付くようになったんですけど、不思議なのは、それらが道に捨てられていることは稀で、きまって花壇に捨てられているということで——これって、どういう現象なんでしょうね。」
「やっぱり茂みとか、見えないところに捨てたいんかな。」
「たしかに。それもあると思うんですけど、なにか本能的に土に還すみたいなところもあるような気がするんですよね。自然への圧倒的な信頼というか。」
「そういえば『自然の景観』っていう本に、たしかそんなことが書かれてた気がする。日本人の自然観として、自然があまりにも豊かやったから、それに甘えてたところがあったって。」
「母なる自然とか言いますもんね。」
「そうそう。」
「『暇と退屈の倫理学』でもありましたよね。遊動生活の時代は、ゴミは何でもその辺に捨てて、それが溜まってきたら移動して、また溜まってきたら移動して、そうして元の場所に帰って来る頃にはすべて土に還ってたって。考えてみれば、甘えの構造そのものですよね。」
「定住革命やったかな。定住を境にして、人類は決まった場所にゴミを捨てたり排泄したりするように進化してきたけど、本能としては遊動生活の名残りがあるから、個々人においてもその進化を達成しないといけない。それは簡単なようでいて、実際はすごい革命的なことやって。」
「とすると、遊動民から庭師へという線がありそうですね。本能としては、ポイ捨ては仕方ない部分があるとしても、現代の不幸はゴミの多くが土に還らないってところで、いつまでも自然に甘えてはいられない。と、そこで庭師的な視点が必要になってくる。たしか捨てるというのは意識の外に放ることやって、これも『暇倫』に書いてたと思いますけど、それはゴミを彼岸送りにすることじゃないですか。けど、惑星をひとつの庭とみなせば、その彼岸が無いんですよね。」
「すべて此岸になる。」
「そう。だから庭師はすべてを引き受けないといけない。ポイ捨てというのは、要は自分のケツを自分で拭かないってことですよね。とすると、責任についてどう考えるかという問題が出てくる。」
4
私には責任というものがよく分からない。疑っている、というのがより正しいかも知れない。気付いたら生きていて、またいつ死ぬかも知れない人間が、責任を負うというのは一体どういうことなのか。それは嘘も方便というときの嘘のようなものではないか。その方便であるような責任を、方便だからと取り合わないでいると、心がないとか、堕落しているという風にとられてしまう。もっともその通りで、他人よりも責任感というものがどうにも薄いことが、私の倫理的な弱点だと自覚している。
ところが、環境を冒すことへの抵抗感については、むしろ他人に比べて強いものがあることもまた自覚している。花壇に捨てられているゴミに、そのありふれた現象に、つど傷付き、それからまた言い知れない淋しさを覚えるのだった。
このことを他人の眼差しに照らしてみれば、ことゴミについては責任感のある人間に映ることもあるだろう。庭師という職業柄、なおさらそのように映り、またそう振舞ってもいる。この矛盾が、かねてから気になっていた。そうして立て続けに目にすることになった花壇に捨てられているゴミによって、私は今が責任について腰を据えて考えるそのときではないかと思うに至り、責任といえば、とこれもかねてから気になっていたものの、しばらく寝かせておいたある本を求めて本屋に行った。
けやき通りの小さな本屋に運良く見つかったそれを棚から取り出して見ると、その帯の惹句には「わたしたちが〈責任あるもの〉になるとき」とあり、呼ばれたと思った。それが反射的に「わたしたちが〈庭師〉になるとき」と読めてしまったからである。タイトルにある『〈責任〉の生成』にもひらめくものを感じた。おそらくは、責任が生成される場としての庭があり得るのではないだろうか。だとすれば、この世界にはもっとそうした庭がひつようなのではないか。
5
と、序章を読み進めながら、私はあの花壇に捨てられていたゴミのことを思い出していた。ここで当事者研究とは、「北海道の浦河町で暮らす、おもに統合失調症という精神障害を抱える当事者たち」(*3)——以下にも出てくる「べてるの家の人々」——によって、2001年に生み出された「民主化された精神分析」(*4)ともいえる研究のことであり、さらには次のようなものである。
「困った行動をとったあの人が悪い」というかたちで物事を考えてしまうのは、なにも対人に限ったことではない。例えば庭に虫が出たというときに、この虫を犯人扱いして、この虫が植物に悪さをはたらくから殺さねばならないと多くの人間は咄嗟に考えてしまうために、春頃になると植木屋はせっせと消毒に——といいながら、その実は毒を振り撒いているのだが——駆け廻ることになる。
そこで立ち止まって、なぜその虫がそこに発生したのか、それは虫そのものが悪いのではなく、環境の側に何か問題があるのではないかと見るのが庭師の物事の見方であり、そうした自然に対する見方を人間に対しても行うというのが、この研究の面白いところだといえる。
「出来事を人ごとのように観察できる」おかげで、私は庭師に向いているともいえれば、それがために社会に向いていないともいえるか、と妙に腑に落ちたことは一旦置いて、このことを花壇に捨てられていたゴミに結びつけて考えてみれば、あれはポイ捨て現象だったといえる。だがその当事者をここに連れてきて、どうしてゴミを捨ててしまったのかについてともに研究をするわけにもいかない。仮に来てくれたとしても、私は花壇にゴミを捨てようなどとは思いもよらない人間であるから、彼の仲間にはなれそうにもない。それでもなお、この現象が気にかかるという意味では——あるいは実際にそのゴミを拾いもした張本人であるからは——私もこの件のある種の当事者とはいえないだろうか。また、ポイ捨てを現象と呼びなおしたときに、その責任はどこへ行ってしまうのだろうか。
免責することによって引責できるのは、何も当事者だけに限らないのではないか、と花壇に引き付けて私は思う。そうでなければ、いつまでもポイ捨てをした当事者が憎いままだろう。本当は私が拾わなくてもいいのに、とやらされている感がつきまとうかも知れない。だがあの時、私は彼に罪を負わせたいとは思わなかった。むしろ彼を免責するからこそ、私は他でもない自分がゴミを拾うものになれたのではないか。
と、ここまで読み進めた時に、私の心はさっきまであるひとつの花壇——その小さな庭で遭遇したポイ捨て現象に占められていたところから、この地球——すなわち惑星という庭で日々刻々と起きている環境問題全体へとうつろった。というのも、ここで「私は犯罪の加害者なんです」と打ち明けたある男性は、この地球に生きているという仕方で、日々刻々とその環境を冒している加害者たる人間の姿そのものではないか。つまり人間は日々、自分よりも正しいらしい有象無象の人間から、お前はこの環境に悪いことをしているのだから反省しろと言われているようなものではないか——例えば、環境問題は私たちひとりひとりの責任である、といった風に。無論、その言葉に間違いはないのだろう。ただしこの言葉は、そういう風に正しいだけで、実際に私たちひとりひとりの責任感を生成するに足るだろうか。それは考えてみるまでもなく、心許ない言葉ではないだろうか。
ただ、そこで無理だと手放すのではなく、無理ならどうすればいいかと私はさらに考えてみたくなった。それはポイ捨ての罪をその当事者に負わせるというのとは似て非なることであり、この似て非なるという微妙な按配の解消はおそらく、責任という概念そのものの問い直しに懸かっているのではないだろうか。
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「行為をある主体に所属させることができるようになる」、「何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない」のなら、そのような信仰はいっそ捨ててしまえばいい、と軽く見ていたところへ薦められたのが、Netflixシリーズの連続ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(*11)であった。主人公である弁護士のウ・ヨンウは、自閉スペクトラム症という精神障害の診断を持っており、それはこの『〈責任〉の生成』においても頻出する障害であったことから、あわせて観れば発見があるかも知れない、と月白で薦められて観始めたのだった。
その第一話は、ある老夫婦の間に起こった暴行事件から始まる。夫の言動についかっとなって暴行を加えてしまった妻が、殺人未遂罪で起訴されるのだが、夫婦ともに老年であり、かつ認知症の夫を妻が長らく介護していた事情から、執行猶予が難なく——たとえ裁判官が黙って座っていたとしても——認められるだろう。そう判断した先輩弁護士の付き添いのもと、新人弁護士の主人公ウ・ヨンウがこの事件を担当することになる。
ところが、途中あることに気付いたウ・ヨンウは、この事件を殺人未遂罪ではなく、あくまで傷害罪に持っていくべきだと考え、被告人にあらためてその時の事情を聴きに伺う――
「先ほどのお話ですが、警察の取り調べで夫に殺意があったと供述を?」
「ええ、あの時殺すべきだった。あんな夫は見たくない。」
「では供述は本心だと?」
「今は間違いなく本心よ。」
「今ではなく事件当時の気持ちです。」
「分からない…。私の気持ちなんか大事なの?」
「殺す気だったら殺人未遂、ケガさせる気なら傷害罪、少し叩く気なら暴行致傷罪、故意じゃなければ過失致傷。法は気持ちを重視します。気持ちによって罪名が変わります。」
それがどのような罪であったか、言い換えればそれがどのように責任を取るべき事件であったかを問う、被告人の人生を大きく左右する裁判の結果が、その当事者をして「分からない…」と言わしめる曖昧な気持ち(≒意志)によって左右されることを、このとき私は初めて知った。いくら人間には自由意志など存在しないといっても、そうした真理では割り切れないもので法治が成り立っている以上は、意志という観念はやはり必要なのだと。
そうしておそらくは必要という以上に、私たちには意志があるとどこかで思い込んで生きている節があるからなお厄介なのである。突き詰めれば自由意志など存在しないといっても、突き詰めていたら何も出来なくなる。そこでうっかり意志を信じるようなつくりに身体がなっていて、社会はもっとそうなっている。しかしそのせいで、かえって見えづらくなっているものもあるのではないだろうか。
そうやって押し付けられる堕落した責任をのみ責任と思い込んで来たのだから、私がかねてからそれについてはよく分からないと思い、また疑ってさえいたのも無理はなかったのだと今に判然としたところで、もうひとつの、「自分が応答するべきである何かに出会ったとき」の感触についても、私には身に覚えがあった。それはあるとき、読書の最中に訪れた。
この一節に差し掛からない前から、この『動いている庭』を読み進めていく過程の中で、私は次第に「こうしたこと」を認める心持になっていたのだろう。つまり、この惑星がひとつの庭であるということを。そうして、この一節に差し掛かったまさにその瞬間に、ここに書かれている人類とは他でもない私のことだ——だから私が生きていく役割もまた、庭師に他ならないのだとさとった。
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義を見てせざるは勇無きなりと孔子はいうけれど、何かに本当に義を見てしまったら最後、それをせざる勇など人間には無いのではないか。少なくとも私にはそれが出来ない。かといって、本当にあなたは義を生きているかと問われたら、道半ばと言わざるを得ない。もとより惑星という庭など、ひとりで背負えるものではない。それでもなおこの義に応答しようとするならば、そのこころみは自然と庭師を増やす方向に傾くのではないだろうか。よし増やして見せようか、と先の一節を振り返ってみれば、ひとが庭師になるかならないかの分岐点は、「こうしたことを認めるならば」にあるといえる。これは「AならばB」という昔懐かしの命題である。つまり、ひとが惑星という庭を一度認めたならば、そのひとは生命の保護者という役割、つまり庭師の役割を自覚することになる、という命題である。気になるのはだから、惑星という庭とは一体何であるかということだろう。
私が庭師に目ざめた『動いている庭』の山内朋樹訳では、地球が惑星となっていて、翻訳で読むインチキをはたらいておきながら恐縮ではあるが、地球よりも惑星の方が魅惑的で、それに地球という言葉はあまりにも一般的なために新しいことを言いづらい、また言っても響きづらいという懸念もあるために、私は断然惑星派なのだが、それはさておき、ジル・クレマンは何を以て、これを確信するに至ったのだろうか。
この三つの理由を聞いて、惑星と庭との連関をよし納得したとしても、庭といえばやはりまだ観賞主義的な、パンというよりはバラのための庭を思い浮かべる向きもあるだろう。それが惑星全体に広がれば良いのかといえば、決してそうではない。
またその庭に彼が向き合う態度とは、「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」(*17)であり、その根拠は生態系への配慮であることを思い合わせると、人間の自然との関係の内実は、さらに次のようなことを含む。
近頃方々でよく耳にする「人新世」とは、ここに書かれている地球市民たる人間の行動が、じゅうぶんに穏健なものでないことの結果ではないだろうか。つまり人類の活動が、かつての小惑星の衝突や火山の大噴火に匹敵するような地質学的な変化を地球におよぼしているという「人類の時代」——その不名誉な時代に、もうすでに入っている。そうしておそらく、ジル・クレマンが"これからの"地球はひとつの庭だという確信をもつようになったのも、こうした三つの理由にくわえて、人新世と名ざされるような地質学的な変化を彼としても実感してきたことにあったのではないだろうか。だとすれば人新世とは、いわば「庭師の時代」なのである。
そうしてまた、たとえ知らず知らずのうちであっても、ひとりひとりがこの庭の成り立ちに影響をおよぼしているという点において、私たちは誰もが潜在的には庭師である。それを知らずに花壇にゴミを捨てるような人間もまた、潜在的にはそうである。では潜在的に庭師である私たちが、顕在的に庭師になるのはどのようにしてか。
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仮に私たちが惑星という庭を認めて、それから潜在的には人類すべてが庭師であると気付いたとしても、私たちが人間である以上、それにどのように応答するかはひとそれぞれに違ってくるだろう。言い換えれば、惑星をひとつの庭と認めることと、惑星という庭のありようがひとつしかないと認めることは似て非なる。それが惑星という庭の複数性であり、さらには、そこに生きる人間の可能性ともいえるのではないだろうか。
次にこうした惑星という庭の複数性と、そこに生きる庭師の可能性を探るために、舞台を花壇と惑星から、今度は無人島にうつして考えてみたい。
ここでドゥルーズのいう「世界の存在の感覚」は、きっと「惑星という庭の存在の感覚」と読み換えることができる。そこでひとつ気になったのは、「実際に私はそれを見ていなくても、他者が私の代わりにそれを見て、経験してくれているという感覚」の拡張によって、「惑星という庭の存在の感覚が得られる」ために必要な他者が、なぜ「自分と似たような他者」でなければならないかということだ。惑星という庭の感覚を得るためには、人間という他者だけでは端的に役不足ではないだろうか?例えば地球の裏側よりももっと謎に満ちた土の中を、私たちが仮にでも感覚し想像できるのは、地上の人間の存在によらず、地下の目に見えない微生物の存在によってではないか。あるいは「知ってますか?深海より月の裏側のほうが知られてます。シロナガスクジラの出産を見た人はいません。飛行機ほど大きなシロナガスクジラがカバほど重い子クジラを産んでるのに、広くて深い海に秘密が守られているのです。」と、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の第二話で、ウ・ヨンウがイ・ジュノに一方的に話しかけるシーンをドゥルーズ的に観るならば、人間に見ることのいまだ叶わない深海という領域が、それでも確かに存在すると感じられるのは、シロナガスクジラの存在のおかげではないだろうか。
それから「シロナガスクジラの糞は赤い。オキアミを食べてるからです。クジラの糞は深海の栄養分を海面に引き上げるポンプの役割をしてます。クジラは深海で餌を食べて海面で排便するんですが、糞はプランクトンの栄養分になるんです。」と語るウ・ヨンウの世界観を想像すれば、そこに生きるシロナガスクジラとは、人間には到底担えない海のポンプの役割を、日夜深海と海面を股にかけて務める、惑星という庭の庭師のようなものではないか。少なくとも『ウ・ヨンウ』以降の私には、そのように思えてならない。
「私は自分の仕事をするなかで、これからの地球はひとつの庭だという確信をもつようになりました」と語った他でもないジル・クレマンもまた、論理としてこれを机上に打ち立てたのではなく、自邸の庭と数々の現場を行き来する中で、次第にこれを実感するに至ったのだろう。それはきっと、彼が「植物にとどまらず生物全般についての造詣も深く、カメルーン北部で蛾の新種(Buenaeopsis clementi)を発見している」(*21)ことと、根を同じにしているのではないだろうか。つまりそうした造詣が深くなればなるほどに、この惑星が、次第にひとつの庭だと感じられたのではないか。そのようにして、惑星という庭が自分の心の中に生成されてくるというのは、いったいどれほど素晴らしい愉悦であることか。
その他者がいない、あるいはいるにもかかわらずそれを感じられないということが、私には環境問題の本質だと思えてならない。自分に見えているものだけが世界だと感じてしまうからこそ、自分のしたことが果たして自分の見えていない彼岸にどのような影響を及ぼすのかを知らない。花壇にゴミを捨てた、その先を知らない。花壇でなくても毎日のようにゴミを捨てているのに、その行く末を私たちの多くは知らない。つまり私たちは生きているということがどういうことなのかを知らない——多かれ少なかれ、私たちはこのような無人島の逗留者ではないだろうか。
これは非常に興味深い話というよりも、非常に悲惨な話ではないだろうか。ホームステイ先に居たこの日本人にとっての他者は、果たして人間だけだったということだろうか。つまり花も、鳥も、虫も、彼はひとつも知らなかったのかも知れない。そうしておそらくは、花壇にポイ捨てをした彼も、その花壇に何が生えていたのかを知らなかったのだろう。
ドゥルーズが無人島と呼んで思考した他者のいない世界とは、かくも淋しい世界であり、私たちは多かれ少なかれ、この淋しさを抱えて生きている。それはちょうど、生物全般に造詣が深くなればなるほどに、この惑星が次第にひとつの庭だと感じられるという、どれほど素晴らしいか知れない愉悦と対にある。だとすれば環境問題とは、私たちの心の問題ではないだろうか?
9
と、『動いている庭』の補講に納められた哲学者アラン・ロジェの文章をあらためて読み直していると、私はこれまでも数回ここを読んで来た筈なのに、ジル・クレマンが彼の小説の中で、惑星という庭を「心の領地」と書いていたらしいことが初めて目に留まった。そうしてそのすぐ後に、アラン・ロジェによって責任が言及されていることに、まるで言い合わせたかのような符号を感じ、それからまた、惜しいとも感じた。というのも、こういう風に書かれてしまっては、惑星という庭もまた、まるで誰かしらから押し付けられる堕落した責任のようではないか。そうではなく、自らそれを引責するにはどのようにすればよかったか。それを考えるために、ここで再び当事者研究について話を戻そう。それは読んで字の如く、次のような問いから始まる。
ジル・クレマンが「惑星という庭」を掲げて、こうしたことを認めるならば、地球の乗客である私たちは皆潜在的には庭師なのではないかと問い掛けるに至ったのは、なによりもまず、彼自身が地球の乗客の当事者として、自邸の庭や方々の庭で仕事をする中で、私はいったい何者なのかと問い続けた、その先に見つけた彼なりの答えだったのではないだろうか。だとすれば、そうした彼に倣って、惑星という庭の庭師としての当事者研究がありうるだろう。私たちはいったい何者なのか。その問いはそのまま、この惑星はどのような現象であるかというメカニズムの探求につながる。そうしてそれが自分に納得できたとき、はじめてひとは、惑星がひとつの庭であり、そこに生きる自分は庭師であるということを自らに引き受けるのではないだろうか。あるいは惑星という庭の予感にあてられて、それに突き動かされるようにしてこの惑星を探究する——こうした求道そのものが、すでに引責の道ではないだろうか。
10
近頃はきまって、さてそろそろ掃除に掛かろうと鋏を箒に持ち替える頃に、尉鶲が私の近くにやって来る。私はその度毎に、この仕事をしていてよかった、また彼の名を屋号に据えて本当によかったと思う。それから掃除の手を止めてしばらく見ていると、尉鶲は止まることなく辺りを飛び回るのだが、そうかといって飛び去るでもなく、次第に私は尉鶲と遊んでいるような心持になる。いやこちらの勝手な妄想に過ぎない、と一度は振り払うのだが、尉鶲は何がしたいのか、一向に私を離れようとしない。
こうしたことは、庭ではたらくひとであれば誰にでも経験のあることだろう。そうしてまた、私が庭師の仕事をまだ始めない前、私にこのような鳥との遭遇はほとんどなかったように思う。庭に出れば、それはありふれた些細な出来事なのだが、庭に出なければ、それは地球の裏側での出来事となんら変わらない。
そうして庭に出てみれば、いかにもありふれたこの些細な出来事が、その度毎に、私を庭師たらしめる気がする。この時の心持を煮詰めたものが、『〈責任〉の生成』で書かれていたような応答としての責任であり、義の心なのではないだろうか。身ぐるみ剥がされて瀕死の状態には一見見えない尉鶲だが、彼らの生態史をよく知る人にとってみれば、あるいは瀕死の旅人とそう変わらないかも知れない。同じ眼で人類を見渡せば、果たしてどうだろうか。
もっとも普段からそのようなことは考えないが、庭に尉鶲の淋しい声で鳴くような気持を、私は忘れないでいたいと思う。私にとって庭はそれを思い出す場所、あるいは思い出すことを思い出すための場所のような気がする。
今ではこんなに近くにやって来る尉鶲も、春となり、冬鳥であるからは、きっとそのうち海の向こうへ飛び立ってしまうだろう。そうして惑星のどこか知らないところで、私の知らない花やかな声で囀るだろう。
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