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夏季語・ショートショート 3|麦湯
四季を感じられる身近な言葉から、小さな物語を。
季語をタイトルにした掌編小説、ショートショートです。
まっすぐ家に帰りたくなくて路地を曲がったら、いつの間にか、踏んだことのない敷石の道を歩いていた。
道に迷った? そんなバカな、と顔を上げて、さらに目を疑った。
最寄駅に着いたのが午後八時過ぎ。
とっくに日が暮れていたのに、顔を上げたその時、辺りの風景が薄ぼんやりした夕暮れだったからだ。
逆ならあり得る。
さっきまで夕暮れだったのに、急に日が落ちたということならある。
しかし、路地を曲がったら急に夜が夕暮れに戻るなんてことがあるだろうか。
何か変だ。
混乱してスマホを取り出すと、バッテリーが切れていた。
腕時計をする習慣はないので、時間がわからない。
場所もわからない。
途方に暮れて辺りを見回す。
見覚えはないが、特におかしなところもない住宅街だった。
道沿いには電柱が並び、小さな一軒家と低層のアパートが立ち並ぶ。
いくつかの窓には灯りがともり、人々の気配があり、どこからともなく夕餉や石けんの匂いが漂ってくる。
ただ、道には誰も歩いていない。
空を見上げる。
まだ薄明るくて星はよく見えない。
ガーゼのような雲がたなびき、その一端が朱鷺色に染まっている。
あちらが西か、と見当をつけた。
駅からまだそんなに離れていないはずだ。
方角が分かれば、あとは知っている通りに出くわすまで歩くしかない。
頭の中で地図を展開して、大通りに出られそうな方角へ向けて歩きはじめた。
しばらく行くと、道のわきにぽちりと灯りが見えた。
小さな屋台のようだ。
車輪がついた小さなカウンターの上にパラソルが広げられ、ランタンがつるされている。
カウンターの向こうで店の人が、何やらしゃがんで作業をしている。
ガスコンロには琺瑯のポットがかけられて、香ばしい匂いが漂っている。
コーヒーだろうか。
そうだ、コーヒーを一杯買って、道をたずねよう。
そう思って近づいたとき、暗がりにまぎれていた店の人が、カウンターの向こうでスッと立ち上がった。
そこにいたのは、しろねこだった。
正確に言うと、しろねこの着ぐるみを着た中年男性(おそらく)が、さらにその上に洋服を着込んでいるのだった。
パリッとした白いシャツに、サスペンダーでとめた黒いズボン。
首の周りには少し窮屈そうに深緑の蝶ネクタイをはめている。
顔は出るように着ぐるみの毛皮がまるく切り抜いてあり、ミュージカル”CATS”のような本気の猫メイクがほどこされている。
「いらっしゃいませ」
声をかけようとしたまま停止したわたしを見て、しろねこさんは言った。
エレガントな声だった。
わたしはぐるりと周囲を見回した。
何らかのお祭り、イベント、子ども向けの仮装、など、いろんな可能性がわたしの頭を駆け巡ったけれど、そこは相変わらずしんとした夕暮れの住宅街で、ぽつんとひとつ、この屋台があるだけだった。
「むぎゆでよろしいですか?」
手元の火加減を調節しながらしろねこさんが言った。
むぎゆ?
ランタンのほのかな灯りに照らされた小さな木の看板には、確かに「麦湯」と書かれていた。
「炒った大麦を煎じたものです。熱くても、冷やしても。砂糖を入れても美味しいですよ」
「温かいほうをお願いします」
わたしは言い、しろねこさんはこくりとうなずいて、砂糖の有無をたずねた。
わたしは砂糖も加えてもらうことにした。
「おまたせしました」
カウンターにことりと器が置かれた。
ぽってりとした厚手の陶器で、両手ですっぽり包めるくらいの大ぶりなものだった。
折りたたみの椅子に腰掛けて、なみなみとそそがれた麦湯を、ゆっくりと飲んだ。
濃く熱く煮出された琥珀色の液体は、しっかりと麦の香りが香ばしく、甘味と深く調和してわたしを芯から温めた。
いつの間にかすごく冷えていたんだな、とわたしは思った。
今夜は浴槽にたっぷりの湯をためて、ゆっくりお風呂に入ろう。
ごちそうさまでした、と言って器を返すと、道をたずねた。
その先を曲がると、大通りですよ、としろねこさんは教えてくれた。
お代を聞くと、89円です、と言う答えが返った。
ずいぶん半端な数字だな、と思いながら小銭入れを開くと、ちょうど89円分の硬貨があった。
美味しかったです、とお礼を言い、
ありがとうございました、と言う声に見送られて、わたしは小さな店をあとにした。
角を曲がるとすぐに、よく見知った通りに出た。
やけに街灯が眩しいと思ったら、いつの間にか日が暮れているのだった。
了
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