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夏季語・ショートショート 7|ハンモック

四季を感じられる身近な言葉から、小さな物語を。
季語をタイトルにした掌編小説、ショートショートです。

季語の掌編小説集|小倉ソフ子

「雲」という看板がいつも気になっていた。
駅前の繁華な通りから一本路地に入った、小さな店が立ち並ぶ一角にその店はある。

日中は静まり返ったその通りは、宵の口からポツポツとネオン看板が立ち並ぶ。
間口の小さな、屋根も低い店々がひしめき合って並ぶ様は、さながら少しノスタルジックな映画のセットのようだ。

蒸し暑い日だった。
スコールのような激しい雷雨が残していった水溜りが、あちこちでぼんやりとネオンを映して、地上と反転した極彩色の道を作り出している。
寄せてくる夕闇をかわしながらウロウロと歩くうちに、そんなばらまかれた色彩の中に、わたしは踏み込んでいた。

その通りの中ほどに「雲」という店がある。
雲、いわゆるクラウドのアイコンのようなシンプルなロゴが、置き型の白い電飾看板に、単純な線で描かれている。

入り口のドアの脇には大ぶりな木製の表札に「雲」とだけ彫られている。
もしや「雲さん」という方の住居なのか、とも思うほどの素朴な表札だが、電飾看板も出ていることだし、やはりここは何かの店なのだろう。

逡巡していると、看板の足元の水たまりの中で、ロゴの雲がゆらゆらと揺れた。
そのやわらかさにおされるように、わたしは扉を開いた。

カランコロンカランコロンカラーン
素朴な音色のカウベルが小さく鳴って、

「いらっしゃいませ」

ぽつぽつと灯りが灯る、薄暗い店内から声がした。
やはりお店だった、と安堵したわたしは、次に目にしたものにハッとしてその場に立ちすくんだ。

そこにいたのは、しろねこだった。

正確に言うと、しろねこの着ぐるみを着た中年男性(おそらく)が、さらにその上に洋服を着込んでいるのだった。

パリッとした白いシャツに、サスペンダーでとめた黒いズボン。
首の周りには少し窮屈そうに深緑の蝶ネクタイをはめている。
顔は出るように着ぐるみの毛皮がまるく切り抜いてあり、ミュージカル”CATS”のような本気の猫メイクがほどこされている。

立ちすくむわたしの背後で、パタンと扉が閉まった。

「ようこそ、いらっしゃいませ」
停止したわたしを見て、しろねこさんはふたたび言った。
エレガントな声だった。

「どうぞ、お好きなお席をお選びください」

暗がりにもだんだん目が慣れてきた。
しろねこさんにうながされて店内を見回すと、間口からは想像できない広さのフロアが、目の前に広がっていた。

年季の入った床板、一方にカウンター、ぽつぽつと配置されたローテーブル、それらすべてがよく磨かれた飴色の木製で、装飾といえば、ところどころに素朴なミルク壺のような花瓶があり、控えめな色の花が生けてある。

そしてあちこちにつるされた座席が、そのやわらかな生成り色に灯りをうつして、ぼうっと浮かび上がっていた。

「当店は、すべてハンモックの座席となっております」

ハンモック・カフェ、
ハンモック・バー、
だろうか。

おそらくレコードから流れているクラシック音楽が、ごく小さなボリュームで店内を満たしている。

目をこらすとあちこちにつるされた大小さまざまのハンモックには、ちらほらと、客がいるようだった。

いずれもひとり客で、それぞれ、思い思いの姿勢でハンモックにおさまり、スマホを見たり、本を読んだり、コーヒーや酒を飲んだり、あるいは何もせずにぼうっと物思いにふけっている。

フロアの一角にある小さなハンモックに、わたしは座り、ローテーブルにある小さなスタンドのメニューから、雲のオムレツと雲のビールを頼んだ。

かしこまりました、と言ってしろねこさんはカウンターに入り、やがて、じゅうじゅうというかすかな音とバターの溶ける香りが漂ってきて、わたしのお腹がグーっと鳴った。

「お待たせしました」
ほどなく運ばれてきたのは、なめらかに黄色いプレーンオムレツと、陶器のマグに並々と注がれた琥珀色のビールだった。

「いただきます」
冷たいビールをひとくち飲み、あつあつのプレーンオムレツを頬張ると、知らず涙があふれ出して来て、わたしの視界はゆらゆらと揺れ、こぼれ落ちた涙のいくつかが、ハンモックに座る膝に落ちてパタパタと音をたてた。

夜、繁華街、バー(あるいはカフェ)、オムレツ、ビール、という組み合わせなのに、子どもの頃に毎日夢中で遊んでお腹を空かせ、はぐはぐと頬張ったオムレツと同じ味がしたからだった。

コクがあるのにフワッと軽い、まさに雲のビールと、
あつあつでふわふわで、しあわせがいっぱいに広がってそのままおなかに入ってゆくような、雲のオムレツ。

そして雲のようなハンモックにゆらゆらと揺られながら、わたしはひさしぶりにいろんな味や匂いや感触や……わたし自身に元々備わっていた感覚が、わたし自身にかえって来たように思った。

しろねこさんに追加でコーヒーを注文すると、わたしは鞄から分厚い本を取り出した。
大好きな作家の新作で、すぐに買ったものの持ち歩くばかりでずっと読めていなかった本だった。

意外に大きなハンモックに悠々と身を横たえ、一度思いきり伸びをしてそれからいい具合に丸くなり、最初のページをめくる。

やがて、カウンターからコーヒーのいい香りが漂ってきた。

わたしはハンモックに揺られながら、本の世界をゆっくりと旅しはじめていた。


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