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【20年の軌跡-Vol.06】誰もが頼りたくなる事務局長の秘訣。学生起業からの40年史 #SDN20

育て上げネットの歩みを紹介する企画「20年の軌跡」。
6回目は、育て上げネットの事務局長・石山義典。

育て上げネットをご存知の方はもちろん、若者支援やNPOについて理解を深めてみたい方、NPOへのセカンドキャリアを考えている方、将来を模索する若者もぜひご覧ください!

これまでの記事はこちら

石山 義典(いしやま よしのり)
学生時に学習塾を開設。こども英会話スクール、不登校生等のフリースクールも併設する。2000年には社団法人日本青少年育成協会で不登校生の社会参加支援事業を担当。現在は育て上げネットの事務局長を担う。


【大工になりたかった学生時代】


――昔から若者支援に関心があったのでしょうか?

当時は中1の選択科目の技術で、男子は設計を学びます。それがストンと自分の中に入ってきて、大工さんになりたかったです。あるいは先生。
昔から勉強は好きではなくて、高校も大学もどうだっていいと思ってました。

――先生になりたかった理由は?

なんでだったんでしょうね。それが思い出せないんですよ。
両親が教師というわけでもない。

父親は新潟出身の集団就職世代で、いわゆる「金の卵」と呼ばれて東京に出てきた人。母親は東京出身で教師ではないんです。

中三の時の担任に工科高校の建築科に行きたいといったら怒られました。中3の9月の模試で学年2位で偏差値70近くあって。工業高校は偏差値もそこまで高くないので先生に止められたのかな、と思っています。

どうしても大工さんになりたいなら大学の建築科に行ってからなればいいと。

大学には行かなくてもいいと思ってたのに、先生にもなりたいなら大学にいかなくてはダメと言われました。ひと回り上の従兄弟も先生で、あの人も大学いってるなと思った。じゃあ大学に行かなきゃなと思いました。

でも勉強は好きじゃなかったんですよ。

――先生的にはもったいないと思ったんでしょうね

たまたま中3の夏期講習から通い始めた塾と馬が合ったんだと思います。
2学期以降、急激に成績が上がりました。

でも学校が始まれば塾には週に何回か行くだけなので成績はどんどん下がっていく。だから、本当に勉強は好きではなかったと思う。

――進学はどうされたのですか?

結局、普通科を受けることにしました。
夏期講習が終わり勉強をしなくなったので、第一、第二志望に落ちて滑り止めの男子校へ。技術の授業もある高校で、1年間だけ、かなり本格的に製図を学びました。

なかにはすごくできる子もいたけど、僕はそこそこで終わってしまって。それもあって、大工さんになるのは無理だと思いました。製図は本来は関係ないんですけどね。

大河ドラマがきっかけで歴史が好きだったので、大学は歴史を学べる学部あがあるところに進学しようと思いました。

――大工さんをあきらめたので、先生になるべく大学に進学したのですね

大学では文学部で日本史を専攻しました。
卒論は「京中賑給(しんきゅう/しんごう)の年中行事化についての考察」。

特に平安時代までの古代が好きです。
有名だけどよくわかってないものに惹かれます。自分で考察したいから。
どちら側の資料で見るかで、変わってくるのが面白いです。

【在学中に学習塾を立ち上げ】

――大学の時は先生になりたかったんですよね

はい、そのために中学の時に通っていた塾でアルバイトをしました。
2年生の時にはバイトなのに主任になって、3年生のときに塾長とぶつかり辞めました。そこで他の塾に行ったら、今度はものすごく適当でショックを受けました。鍵も開かずに、生徒も私も困り果てた。

これだったら自分でやった方が良いと思いました。

――それで起業したんですか

父の庭にプレハブを建てて小・中学生対象の塾を始めました。
プレハブ代は父親に借金をして保証人になってもらいました。

最初は私だけで、途中から弟ふたりにも手伝ってもらい、学生アルバイトにも入ってもらいました。

――やりがいはあった?

そうですね、子どもたちに何かを教えていくことが面白かったです。
中学くらいまではやればだいたいできます。

本人も親もできるようになると喜ぶので、それが嬉しかった。
大学生だけど ”先生、先生” と言われて舞い上がっていたのもあったと思う。

その頃は “良い学校に入って良い会社に入れば幸せな人生が待ってる” という時代でした。バブルの頃は、春に一回チラシを入れれば新学期の入塾金だけで元がとれましたよ。

――多忙な大学時代ですね。先生の夢の方はどうでした?

教員試験は4年生のときに塾の規模が拡大したので受けませんでした。
塾は2期目には50人を抱えていました。
経営手腕が優れていたのではなく、そういう時代だったんです(笑)。

“教育産業に倒産なし”なんて言葉もありました。親が子どもにお金をかけるのは当たり前になっていて、当時は通塾率7割という時代でした。

――今も親が教育にかけるお金が増えていますね

実は当時に比べて通塾率自体は落ちているんですよね。やらせる人とやらせない人の格差が激しくなっている。当時は本当に、経営手腕もへったくれもなかったんです、無名の学生が塾をやりたいと思って始めたら人が集まるんですから。

金勘定から何から全部自分でやっていたけど、経営のいろはもわからずサークル活動の延長戦上の意識でやっていました。

――塾は何年くらい運営した?

父親の庭のプレハブで、結局30歳になるまで10年ほど運営していました。
最初は1,000万ほど借金があったけど、最終的に全部返せました。それくらいバブルっておかしかった。

塾は30歳の頃がピークで、10年目で子どもが生まれたころには英会話教室も始めました。

【 "啓くん" との出会い】

――順調に人生を歩んでいるように思いますが…

あるとき塾に不登校の子が来たんです。
「どうせ学校に行かないなら昼間も来たら?」と声を掛けました。

そうしたら産経リビングに記事を出してくれる人が現れて。いかにも「不登校の子の支援をする場所」という内容の記事が書かれて何人か希望者がやってきてどんどん昼間の時間帯も人が増えていきました。

一方、受験戦争が下火になり塾産業が転換期にさしかかりました。

――冬の時代がやってきたんですね

当時の不登校のスクール(フリースクール)は、長期休みは運営しないと聞いていました。学校のない時期は昼間も学習塾が優先されていたからです。

だから昼間に不登校の子向け、夕方以降に通常の塾を運営すればダブルインカムだと考えました。でもそれは大きな間違い。

「あそこは不登校の子が行くところなんだよ」と広まったら、塾の子が来なくなってしまったんです。

――塾の運営が立ち行かなくなってしまったんですね

不登校の子が数十人になった時点で、学習塾の入塾がほぼなくなってしまいました。その時に(あれ?)って思って。気付くのが遅すぎました。

田舎なので中3から塾に通う子が圧倒的に多いんです。

2年生を3月につかまえられるかどうかですべて決まるのに、ほとんどが来なくなっていた。

――不登校の生徒は何人くらいいた?

ピーク時で20人弱くらい。小中学生を対象にしたフリースクールになりました。私としては塾よりこちらの方が断然面白くなっていました。

学習塾は、学校教育というより受験産業の下請けです。
毎年毎回、同じことの繰り返し。

でも昼間にくる子は、学校に行かないと思っている子たち。うちにだって嫌になったら来ないから、嫌にならないように仕向けないといけません。

フリースクールにずーっといても仕方ないから、高校受験をさせたかった。
なので、不登校を受け入れる高校とやり取りしたり、通っている中学校にも行きました。

受験をさせるので基礎学力は必須だけど、無理やりでは来てくれない。でもまったくやらせないと高校で困ってしまう。そういうギリギリのところを自分で考えてやっていくのが面白かった。

――やることが違うからやりがいがあったのですね

そうですね、ひとつの成功体験でしょうね。
うまくいかなかったらやめていました。
でも、こっちの方が面白かったしうまくいく子が出てきたので。

――フリースクールだけでやっていこうとなった?

35歳頃に塾は閉めて昼間の不登校だけを運営していました。
NPOが世の中に出始めた時期で不登校支援をしているという仲間に出会います。

その仲間たちと不登校支援の輪を拡げようと“日本フリースクール協会”という団体を作りました。

そんなときに、全国で本格的に活動していた日本青少年育成協会 の専務理事が「うちを手伝ってよ」と声を掛けてくれました。さすがに日本フリースクール協会は商売にならなくて手伝うことに決めました。

フリースクールから高校受験というと、今よりずっと大変な時代でした。
そこでサポート校や通信制高校の人たちを呼んで、不登校生や保護者向けの説明会を日本青少年育成協会の事業として開催させてもらいました。

――人生の転機ですね

そうですね。そのなかでも工藤定次さんとの出会いは大きいポイントです。
協会の専務が知り合いで、定次さん若者支援界隈の有名人でした。

あるとき、定次さんがチャラい息子(笑)を連れて、専務を訪ねられました。日本財団がスポンサーで全国講演をすることになり、私も一緒にまわることになりました。

写真:2005年ごろ

――"チャラい息子" が理事長ですか…?

そうです。のちに育て上げネットの理事長になる工藤啓くんです。留学帰りのころで、専務と定次さんを含めて対面した日に「今度、石山さんの教室に英会話の講師として行ってもいいですか?」と聞かれたので、僕は「いいよ」と答えました。

専務もいましたが、英会話教室は僕が経営者なので一存で決められることだったので即答したんです。

でも、そのあと啓くんから長文のお詫びのメールが届きました。

「専務や父が同席していたあの場で、あんな風に頼まれたら断れませんよね。工藤定次の息子から頼まれたら断れないだろう。」と親父に怒られました、と。

そのメールを読んでのチャラい印象が変わりました。
この子、ちゃんとした子なんだなと印象を持ちました。

――詫びろと言われたのかも

言われたにしても、その年齢の男の子がすぐに行動できるかということですよね。

当時26歳くらいだと思います。その時は私は38歳くらい。
今は私の上司ですけど(笑)

――今につながってきましたね

工藤親子と全国をまわっているなかで、確か福岡だったと思うけど、定次さんに言われました。

「福生で若者支援をやってるけどそこだけではどうしようもない。同じ志を持つ人とネットワークを作りたい」と。

日本青少年育成協会は会員制で、青少年の支援という意味では似たようなことをしていました。でも、定次さんが言っていたのは「会員」だけど「会員制」ではなく、「みんな」で何かすることをやりたいと。

そんなときに「事務局をまとめる存在がいないんだ」と定次さんが言って。「石山くん、来てくれないか」と頼まれたんです。

定次さんってそういうタイプの人ではないんです。
「おまえ来い!」っていう人(笑)

しおらしく「来てくれないか」なんて言われるとは想像もしてなくて本当に驚きました。その頃、いくつかの学校からも事務局の声は掛かっていたのですが、妻子がいるから生活の拠点を変えるのは難しくて。

そのため、定次さんの会社に入って事務局を手伝うことにしました。当時は福生に事務所があって、啓くんともうひとり男の子がいて。3人で全国を駆けまわりセミナーをしたりしました。

当時はまだ自分たちが直接支援するという発想もなかったから、セミナーが仕事でしたね。

【育て上げネットの事務局長へ】

――育て上げネットとして独立はいつから?

39歳になるころ、育て上げの前身のような団体で啓くんと一緒に仕事をしていました。

しばらくすると立川にも拠点を――という話になり、啓くんが一念発起して自分で運営することになりました。そこで「石山さん、いっしょにやってください」と言われました。

――頼られていますね…

もともと定次さんの型はあったのでゼロからの起業ではないけど、彼が “トップに立ってやっていく”という判断をしたところで、私も立川に行って、事務局長をする運びとなりました。

――いっしょにやってくださいと言われた時の気持ちは?

ふんぎりがついたというのはあります。立川に来て一年は塾を開き続けました。あとひとりだけなんとかしたかった。定次さんに相談したら従業員ごと引き取ってくれました。

私は、啓くんの下でやることに迷いはありませんでした。
最初の印象もあったのかな。意外とちゃんとした子・・・・という。

正直わからないけど、そうさせたくなる何かを持っていた子だった。
そのあとも定次さんとの関係はあったけど、定次さんのご子息だから、という気持ちは完全に切り離してましたね。

最初は定次さんの輪の中で、お小遣い的に給与をもらっていたけど、最終的に啓くんが独立した当初は5万円事務局長でした。(笑)

写真:2005年ごろ

――奥様は理解されたんですか?

以前も食わせてもらってる時期があったので、また前の状態に戻るのかと思っていたのかもしれません(笑)

――NPOの事務局長ってどんな仕事をするのですか? 

ざっくり返すと「全部」をやる仕事だと思っています。
法律的に言えば、法人という大きな枠に実働を担う「事務局」が存在して、その事務局のトップが事務局長。

だから、事業を動かす仕事が事務局長だと思う。
私は実際には理事も兼ねていて、執行役員のメンバーでもある。

法人全体の経営として事務局運営の責任も持つし、あとは金勘定ですね。

はじめて2〜3年くらいまでは、本当にいろいろな手段で切り抜けました。個人の貯金でやりくりしたり・・・・ただ、不足金額が500万を超えるとさすがに個人の貯金では限界がきます。

――規模拡大に合わせ自分の持ち出しも増えますね

どうしようもなくなって銀行から定期的にお金を借りました。銀行とのお付き合いをちゃんとしていくための仕事です。

法人としてはほとんどが引き落としかクレジットカード決済なので、私の個人の積み立てをあえてやって銀行の営業マンに集金に来てもらいました。

そのうち担当者とも親しくなります。こういう商品を買ってくれませんか?と言われて「法人では無理だけど個人なら・・」と私の名義で買ったりしてました。がん保険やiDeCoや積立・・・・まあ、いずれどこかで入るから誰からでも一緒ですよ。

――古い言葉かもしれませんが、漢気を感じます

いつの間にか私は銀行の営業部で有名になりました。
「石山さんて頭下げればやってくれるよ」と(笑)

困ったときに銀行の営業マンは私の元にやって来る。
そうするとこちらも困ったら「一週間で貸してくれ」と言える。

頭下げるのはタダです。
親父からずっと言われていた言葉で、当時の支えになっていました。

――信頼の蓄積が、銀行の与信につながるんですね

それもあったかもしれませんね。
年間予算の10%くらいは早期実行してくれるようになりました。すでに公開していますがコロナ禍のときにも、すぐに1億円借りることができました。

――経理はどのように勉強したのでしょうか?

両親が経理事務所に勤めていました。今でいう会計事務所です。

大学生で塾を始めた時に、帳簿のつけ方などかなりうるさく言われて、銀行との付き合い方は両親に教えてもらいました。

――銀行との付き合い方のポイントは?

銀行に限らないけど人との信頼関係が大事だと思います。
私の場合は、うまくいかなくなったときに、助けてくれる人が現れました。

最終的に私は工藤定次さんに拾われたと思ってます。
あのまま協会にいたら、もしかしたら理事になれたかもしれないけど、自分のやりたいことは違うと感じていました。

私を頼ってくれた啓くんもそう。
その前も、いろんな人に助けられた人生です。

つまり人との関係が人生のポイントになってきていると思ってます。

人を裏切る人は絶対に裏切られるし、裏切っちゃいけない。
誠実でなければいけない。

方便は方便であるかもしれないけど、本気で付き合っていけば本気で助けてもらえるんじゃないかなと私は思っています。まあ、人が好きなんですよね。その代わり、だまされたこともありますよ。

――だまされたことがあるんですか…

羽振りが良いときって人が集まってくるんですよね〜。
お金の匂いってするらしいですよ。私もわからないですけど(笑)

でもおかしくなってくると、急に誰も来なくなる。
それこそ連絡しても居留守使われたりしたりする。

巡り巡って他の人から聞いて「おまえ、バカだなー」と言われたり。
それでも、私は人を裏切ったことはないと思ってます。

“人を信じて、人と一緒にやっていく” のが、よかったことなんじゃないかなと思ってます。

メガバンクはまた違うかもしれないけど、小さな金融機関だとそういった信頼関係の積み重ねが大事なんじゃないかな。

写真:2005年ごろ

――人を見極めるポイントとは?

(阿部さん、深谷さん、蟇田さん…と、今の育て上げに欠かせない人材は石山さんに声をかけられて入ったとのことで・・)

たまたまそう見えちゃうかもしれないけど、
基本的にはまずはこちらが人を信頼することなんじゃないかな。

信頼されることはあとからついてくる。
こちらが信頼していないのに、されることはない。

あと表面的な部分は別にして、真面目であることが第一条件。
何かしようとか、この子のためにとか世の中のために何かしたいとか、例えば深谷さんも蟇田さんもそういうことを仰っていた大企業にいて、そこで培ったもの活かしたいという強い想いを持っていた。

それでいうと阿部は違ったかな。まだ小僧だったので(笑)
でも彼はものすごく素直な子。

本質的には自分に正直で、真面目で想いがあるということが伝わってきたから声をかけたのだと思います。

――認定NPO取得のときについても教えてください

認定NPOを取得することに決めて感じたのは「あー、うちってちゃんとやってなかったんだな」ということでした。

認定の申請で一番大変だったのは寄付者名簿です。
何月何日どこに住んでる○○さんから何円いただいたか、一覧で出さなきゃいけない。各々の合計金額も出さなきゃいけない。

NPOにはいろいろな名目のお金が流れていますから、会計がきっちりしてる状態ってものすごい大変なんです。

――それでも準備を進めて認定取得をされていますね。

認定をとるための会計監査は事務所の一角で受けます。
わたしたちのときは東京都から3名が来て、ファイルをだーっと並べてほぼ1日中監査を受けます。

「え、そこまで見られるの?」と印象的だったのが、住所について。

名簿を見て「これ、住所じゃなくて会社じゃないですか?」と。
「そんなこと言われても・・私は港区に住んでないんで・・・」
「うーん、でもこれ間違いなく会社じゃないと思うな。ちょっと調べて見てもらえます?」と言われる。

居所と氏名が一致しないと寄付として認められず、除外されてしまう。寄付されている方はそんな事情をご存じないから悪気なく違う住所を書くことはありえますよ。

3,000円以上の寄付が年間100人以上というのが当時の基準。

それを過去の何年分か用意して――

大阪と東京だと同姓同名かなと言われるけど、同じ東京だと「これどっちか違うんじゃないかなー。念のため両方はじいてもらえます?」と。

細かい監査員たちはどんなことがあっても感情を動かしません(笑)

他の数字のことも本当に細かくて・・・・・・
育て上げは最終的に2年で取得できたけど、諦める団体もありますよね。「何度もダメになるんだよね、石山さんとこどうやったの?」と聞かれることもありますよ。

育て上げネットが認定をとれたのはキフボン(チャリボン)のおかげなんです。バリューブックスさんに救われました(笑)

もしかしたら育て上げネットに寄付したという意識は薄い方もいるかもしれませんが、監査は想いや意識の問題ではないので本当に助けられました。

――5年に1度、認定のチェックがありますよね

いまはCRMでデータベース管理されていますし、定期的に情報を入力できるようなバックオフィスの環境もそろっています。

規程などの書類のチェックも厳しいですが、認定に限らずNPOでは規程類のチェックは頻繁にされています。そうしたところに時間を割くスタッフがいるので大変なのは変わりませんが大丈夫です。

――事務局長として考慮していることは?

基本はやりたいことをやっていける環境を作ることだと思う。

NPOで事業するってそういうことだと思っている。
現場の方が課題を知っているはず。

いろんなところに行って、スタッフと話をしたり。

グループワークにも参加・発表も

――石山さんが実際に現場に行かれる?

はい。小学校の時からずっと通信簿に「落ち着きがない」と書かれてました。じっとしてられないから、事務局長の仕事は本来は合わないと思います(笑)

満遍なくは行けないけど、なるべく行くようにしていて。
できれば月1ですべての現場をまわりたいと思ってます。

――金銭的な部分は?

最近は助成金や寄付も増えてきて、以前に比べたら安定してきた印象はあります。認定を取得した10年前の悩みだった「委託だからこの予算内でやりきらねば」というのは緩和されつつある。

それでも、法人全体の決算が余裕を持って黒字ではありません。
中長期目標として毎年5%の利益を掲げているけど理想通りにいかない。

寄付は増えていて年間1億円ほどで推移してます。
外資の企業が多かったけど、国内企業からの寄付も増えてきました。

やりたいことをやれる環境が整ってきてるのかなと思う。
そうでないと育て上げネットにいるモチベーションが落ちるでしょ。できるだけやりたいことを実現できるような方向にしたいと常々思ってます。

――最終責任を負う立場ですが、相当な覚悟があるのでは?

そんなことないですよ。

若者支援に限らず、対人支援をしていればいろいろなことが起こります。事件や事故につながるケースもないとはいえません。
ですから、スタッフが事前事後の打ち合わせを丁寧にしています。

危機管理はひとりでやっても仕方ない。みんなとやっていかないと。
何かあったら困るのは我々ではないですよ。利用している子どもや若者です。その場所を必要としている子が来れなくなってしまう。

そういうふうにスタッフそれぞれが真剣に考えてくれることが一番。

それでも何かあったらってよく言われますよね。
誰が責任をとるんだ?みたいなの。そしたら私が責任をとる。

プライベートでは和装も多い

――引退後の生活は考えておられますか?

2年半前に契約したキャンピングカーがようやく納車になりました。
妻と2人で夏休みに福島の猪苗代に4泊したのですが、今後は北海道や九州にも行ってみたい。

キャンピングカーで行くとキャンピングカー同士で話をするけど、みんな「北海道いいよ」と言う。雄大だから。

今は卒園した幼稚園の評議員も担っています。必要とされれば必要とされる場所に行く。何かしたいというわけでもないけど、頼まれたら断らずにやりたいと思っています。頼まれているうちが華だと思う。

――育て上げの今後の展望は?

大きくなってほしいとは思わないけど、育て上げネットに関わった人が、
ああ、あの人は元育て上げネットね、なるほどね、ちょっと違うよねと思ってもらえる組織になったらいいなと思います。

育て上げネットを通過していった人、利用した人や支援に関わった人、お手伝いしてくれた人、色んな人が育て上げに関わると、みんなこんな風に考えてその次に行くんだね、みたいなのができていくといいなと思いますね。

こんな若者支援を実現したいという人が地方で現れたときに支援できるような仕組みもいいなと思う。育て上げネットの志が拡がっていくといいなと思います。

やはり子ども・若者を育てるって必要なことだと思います。順風満帆な人生を送っている人にとっても同じ。困っていない人はこれから困らないように。それをみんなでやっていく。誰かがやるのではなく、みんなでやるのが大事。

地域で育てる、群れで育てるというのが当たり前だったものが薄れています。人と人が実践して関わること、イベントや地域のお祭りのお手伝いや、
いろんな形で子ども・若者たちにかまうようになるといいなと思います。

――そのために考えておられることは?

ひとつはジョブトレが積極的に地域と関わること。育て上げネットはこの業界では有名だけど立川市民17万人にはまったく無名なNPOです。地域で活躍するスタッフもいるけど、法人単位でも積極的に地域に関わって、まずは知ってもらうことが第一歩だと思います。

今回はここまで!

読んでいただきありがとうございました。
次回は広報に事業について振り返ります。3月中旬公開予定です!


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