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わかりやすさ VS まどろっこしさ

昨日の夜、妻と言い争いをした。
妻が、夕飯の最後にとっておいた焼き芋の皮をむき、口を開いて今まさにかぶりつこうとした瞬間、3歳の息子が
「焼き芋食べたい…。」
と言ったのだ。妻は眉間に一本のしわをよせ、返した言葉は
「あなたは最初に食べたでしょ。これはママの。」
確かに息子は一番初めに焼き芋を食べ、その後に夕飯を食べたので正論である。私をこれを流せばよかったのだが、余計な一言が出てしまった。
「あげればいいじゃん。相手は3歳の子ども。これから大きくなる子ども。ママはいつも痩せたい痩せたいって言ってるんだから、その焼き芋をあげて痩せ、子どもはもらってハッピー、最高じゃないか。」
妻は黙って話を聞き、眉間のしわが2本に増えた。ここでやめておけばよかったのに、私は言ってしまった。
「ママは、食い意地はってるよ。子どもだなぁ。」
うん、そう。眉間のしわは4本に増えた。
妻はしばらく黙っていた。ずっと険悪なのも嫌なので私は恐る恐る話を切り出し話し合いを始めた。
よく話をしてみると、妻が怒りは、焼き芋をあげなかったことを指摘されたことに対するものではなかった。私のものの言い方が気に入らなかったらしい。妻が言うには、
「食い意地はってるよ。」
と、相手を否定する言い方が嫌だったらしい。指摘するなら
「相手は3歳。大人なんだからあげなよ。」
と、どう行動すればよいかも含めて言ってほしいとのことだった。

私は元教員。妻も現役の教員。私が担任していた時のことを思い出した。
学級の雰囲気を壊し、子どもたちのやる気を奪うオバチャン、オジチャン先生は決まって
「それはおかしいでしょ。こうしなさい。」(指摘+望ましい行動)
と子どもたちに言っていた。子どもにも事情があるのである。あなたの授業はつまらない。だから時間をつぶすために必死なんだ、と言わずに我慢していた子どもたちを思うとかわいそうだったなと思う。
私が担任なら
「君がそうしている理由が知りたい。」
と聞くと思う。

私が「食い意地はってるよ。」と言ったのは余計な一言だったと思うが、妻の言い分を聞きたかったのだと思う。

私 「食い意地はってるよ。」
妻 「だって焼き芋食べたいんだもん。」
私 「子どもも食べたがってるんだからあげたら?」
妻 「最後の楽しみにとってたのに?」
私 「うん。子どもの中に残るよ。自分の母は、私が強く望んでも、焼き芋を決して分けてくれなかったって。我々は自分で買えるじゃん。」
妻 「確かに…。」

このように、納得を伴った話し合いは、話し合いの後も心に残り続けるし、行動変容につながると思っている。でも、妻が望んでいた(指摘+望ましい行動)を伝えると、

私 「相手は3歳。大人なんだからあげなよ。」
妻 「わかりましたよ。」

こんな感じで、納得した上でではなく「言われたから仕方なく」になってしまうと思ったのである。と、話し合いをしながら気づいていった。
※ 我が家での予想される会話であって、すべての家庭での会話にあてはまるものではないので悪しからず。

学級崩壊の原因は、100%担任の力不足であると私は思っている。正しい行動なんて子どもだってわかっているし、AIに聞けばすぐにTPOにあった言動を導き出すことができる時代になったと思う。だから、オバチャン、オジチャン先生が、「経験」と言う無意味な自信を振りかざして
「それはおかしいでしょ。こうしなさい。」
と言ったところで、子どもたちの心には響かないし、担任が変わる来年度までの期間、学校やクラスがつまらない場所になってしまうのだと思う。
押し付けるのではなく、相手の事情を察する(知ろうとする)ことが、学級経営するうえで大事なことだと考えている。

夫婦関係も対話は大事だが、今回の件は、妻の焼き芋愛に対する私の理解不足も相まって、うまく対話にならず反省している。親だって人間。欲望はあるから、すべてを捨てて子ども優先というのは間違っているとも思った。幼い息子も、相手の気持ちを理解するよう努める力を身に付けてほしいと思っているから、息子がもう少し大きくなり、次に同じことがあったら、
「一口だけもらいな。ママはお前の次に焼き芋を愛しているらしい。」
と言うことにする。

近々、焼き芋を買って帰ろう。



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