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優しさは「純度100%」である必要があるか

Instagramのストーリーズで、
「貴方が誰かに優しくできる理由は何ですか?」
という問いを投げかけました。

たくさんの人が答えてくれて、自分自身とっても勉強になりました。
そのいろんな回答とか、分析とかはまたいつか別のnoteに纏められたらな。と思いますが、今回はなぜこんな問いを投げかけたのか、について書きます。

私は中高生の頃、
自分が「純度100%」で人に優しさを向けられないことに悩んでいた時期がありました。
明確に悩んでいたというより、もやーっと悩んでいたような気がする、程度でしたが。
(思春期特有のものだったような気もします。)

「純度100%の優しさ」ってどういう意味だ。と思われるかもしれませんが、
私にとって理想の優しさとは、「相手へのプラスの思い」だけで構成されている優しさでした。つまり、相手に笑っていてほしいとか、優しくされたら嬉しいだろうことを知っているから優しくしてあげたいだとか……それが私の目指す「純度100%」の優しさでした。

ですが、それは私にはできませんでした。どうしても私の優しさの中には、「相手によく思われたい」「他人によく見られたい」という気持ちが含まれていました。それ自体特に悪いことではないと、今なら思えるのですが、当時の私はそれを受け止められませんでした。

私は嬉しいことに、基本的に優しい人達に囲まれてきましたが、本当に心から優しそうな人を見ると、あの人は純度100%の優しさを誰かに注げるのに、なぜ私にはできないんだろう、私は性格が悪いのかもしれない、と自己嫌悪に陥ることもありました。

でも、他人の心を覗くことはできないし、純度100%の優しさを注いでいるように見えるあの人も、実際はそうでないのかもしれない、と思うようになった。

また、私がこの葛藤から解放されるようになった1番の理由は、そもそも「純度100%」である必要はないという考えを持てるようになったからだ。
そんなこと、考えなくてもわかるし悩む必要もないだろう、と思った方は大勢いるだろうが、私はそう自分の中で納得できてから心が軽くなった。

自分の理想である「純度100%」を追い求めなくても、「自分が誰かに優しくできる」という事実だけで十分だった。その優しささえあれば優しくされた相手も幸せに、優しくできる自分も幸せになれる。
そしてまた、誰かに優しさを注ぐこともできる。そうやって優しさの循環が生まれる。
「優しさ」の中に含まれる、相手へのベクトルも、自分へのベクトルも、どちらもあって構わないのである。
そんな単純なことに気づかなかった私の、戒めであり、同じように悩む誰かへの、気づきになれたらという願いが、この問いでした。


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