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陽菜は雪のついた前髪を指先で払った。
「クボさん、なんでここにいるんだろう。」
路地での予想外の状況に思わず口から言葉がこぼれる。
陽菜にとってコラフの前でクボを見かける状況というのは実に珍しかった。仕事の時以外、つまりここでは陽菜の様に何かしら別の用があった場合、クボはコラフにプライベートで立ち寄る事は一度も無かったからだ。
自らがシフトに組まれていない時に野暮で立ち寄ったという話も店長やタチバナ君から聴いた事が無かったし、陽菜自身が目にした事が無いだけかもしれないが、いずれにしてもコラフからの帰路を除いて近所のこの路地でクボを見かける事が陽菜には意外でならなかったのだ。
しかしその事だけならまだしも、今に至っては道の向こうのクボの前には、更に目を引く大男まで立っている。控えめに言って異様な光景だ。
陽菜の頭からは先程まで渦巻いていた恐怖心は吹き飛んでいて、今は目の前の状況に意識を奪われていた。
雪はまだ止む様子はなく、しんしんと降り続いている。柔らかな粉雪は人の往来が無くなった小路に降り積もり一面を徐々に絨毯の様に白く染めていく。
しっかりと厚着をしてきたはずなのに、足や指の先へ伝わる寒さが眼前の雪の様にゆっくりと沁み入って来るのが分かった。
ポケットの中で握ったままだった携帯が突然震えだし、陽菜は液晶へ表示された名前を確認してから電話に出た。
「もしもし。。」
「あっ、もしもし!露木さん今どこっすか!」
名前を名乗るより先に向こうからやつきばやに質問が飛んできた。
「え、、今、ちょっと用があって外だけど、、タチバナくん、何、、どうしたの。」
陽菜は相手からの圧に押される形で訝しげに答える。電話の主はタチバナくんだった。
耳に届く声は張りがあって普段のタチバナくんの威勢そのままだったがその声は努めて抑えているようで擦れていて言葉が何処か聴きとりにくかった。
「露木さん露木さん、こっちっす、目の前、道路の向こう!」
「は、、?む、向こう・・?」
タチバナくんの突然の呼びかけに陽菜はきょろきょろと辺りを見回し困惑したが、焦点を合わせる様に改めて暗い道の向こうへ顔を向けると目をこらした。
しかしそこには相変わらずクボと大男が向かい合ったままだ。
と、二人を挟んだ道向こうの電柱の影からひらひらと何かが動いているのが見える。微動だにしないで向き合うクボと大男の圧倒的な存在感から意識が向かなかったが、陽菜の隠れている対角線上には同じような暗い路地が続いていた。電柱の影で揺れているあれは、、手だ。
「露木さん、見えたすか?!」
「ん、、え、、あれってタチバナくん?」
陽菜の返答を聴くが早いか遠くの電柱から一瞬大きな影が動くのが見えた。
「露木さん偶然っすね!いやぁ、、こんな所で逢えるなんて!やっぱり縁っていうかこういうの引き合う何か磁石というか―――」
連弾となって響く聞き覚えのある台詞に、いつか列車の中でタチバナくんと遭遇した出来ごとが陽菜の頭をよぎった。
「も、もしもし、タチバナくん」
独壇場となる前に陽菜は彼の言葉を遮って話しかけた。
「あの、、目の前にいるのってクボさん、だよね、、?」
「そう!そうなんすよ!今日露木さん先に帰った後で俺とクボさんと、、あと、、りささんと三人で飯行く事になって、そんで、、そば屋で飯食って豚の足とビールと、、あぁ、それはどうでもよくて、店出たらクボさん居なくなってて、、りささんがクボさんが誰か追い掛けていったって、、、俺今日これから家ではっちゃんの生配信観るつもりだったのにやばそうだなって思って気付いたら走っててこの状況すよ。誰なんすかあのデカイの」
陽菜はタチバナくんの話すごちゃごちゃになった経緯をかいつまんで頭に流し込みながら状況を整理する。
どうやら、クボさんの妙なスイッチが作動したらしい。今回も、というべきなのかもしれないが。きっと何か見過ごせない事情があったのかもしれないが、、
「一体なにがあったんだろう。。」
陽菜は一人ごちた。
「わかんないんすよ。。クボさん急に走り出して、、なんか喧嘩っぽいすけど、、」
と、急にタチバナくんの、あっ!という叫びが何かの合図の様に響いた。
咄嗟に陽菜が電柱から再び顔を出すと目の前に動きがあった。
「え、、ちょ、ちょっと、、」
陽菜は吃驚に満ちた弱々しい声を漏らした。
体躯が倍近くもある大男の胸倉をクボががっちりと掴んでいる。
あの細い体のどこからそんな馬力が生まれているのか。
最初に目にした鬼気迫る状況から二人の空気は穏便には感じられなかったが、相手に対しクボの手が出た以上これで改めて何か良くない事が目の前で起こっているという事を陽菜ははっきりと確信する。道向こうで声をあげたタチバナくんも焦りや困惑を隠しきれないのだろう。電話の向こうからは不規則な息遣い以外何も聴こえてこない。
陽菜も同様に目の前の状況をただじっと見つめていた。
クボは、相手の胸倉を鷲掴みにしているが相手の男からは怯む様子は見えず、クボは巨大な男の体を自分の方へ無理やりに引き寄せている様だった。
そのことだけでも衝撃的だが、至近距離で何かを互いに言い合っている様にも見える。
「露木さん、、やばいっすよ、警察、、呼びますか、、」
無意識に耳から離していた携帯からタチバナくんの細い声が聴こえた。
「、、、警察。。」
この状況において警察を呼んだ方がいいという事は既に陽菜の頭には浮かんでいた。とにかく動きださなければならないことも充分に理解していた。
しかし、陽菜は頭でどうするべきかを詳細に分かってはいるものの、実際にはタチバナくんへ向けてその全てを押し付け、なんとかしてほしいと思う事しかできないでいた。他人の喧嘩に出くわす事自体陽菜の人生で初めての事なのだ。何が起こるのかも分からない。これから激しく殴りあうのだろうか。そんな事になればクボさんは絶対怪我をする。血が出るかもしれない。相手が武器を隠しもっていたら、ひょっとすれば怪我だけでは済まないかもしれない。身近な人物が目の前で傷つくという恐怖と一刻も早く止めなければならないという焦燥が混濁して押し寄せてくる。掌が汗ばみ心臓の鼓動が徐々に早くなる。冷静な判断ができない。陽菜はタチバナくんに何かを答えようとしたが口が動かないのだった。しかし困惑しているその間にも目の前では刻々と状況は変化している。
既にクボは男の胸倉から両手を離し、間合いを取ると首や肩をおもむろに揺らしたりしている。男の方は乱れたジャケットを軽く直して腕を下げ、両手を胸の前で構えるとクボの出方を伺うように改めて向き直った。
止めに入るならもう今しかないかもしれない。なにがどういう状況かは分からないけれど、悪い事が起きる前に。
陽菜は自らの足先にぐっと力をこめた。
と、次の瞬間、二人の間に割って入る人影が見えた。
あっ、と陽菜は小さく声をあげる。そこに見えたのはコラフの店長だった。
踏み出しかけた足先はそのまま止める事はできず、陽菜は目の前の三人へ向けて駆けだしていた。前髪にかかる粉雪を払いながら距離が近づくにつれ彼らの言い争う荒々しい声が聴こえてきた。
次の瞬間、視界がぐわんと揺れたかと思うと刺す様な冷たさと鈍い痛みが全身にかけめぐった。きゃっ。という小さな悲鳴をあげながら雪の上に倒れ込んだ陽菜は道路の何かに躓いてしまった事を遅れて理解した。
「陽菜ちゃん!」店長の声が聴こえ、慌てた足音が近づいてくる。
足首をひねってしまったのか痛くて立ちあがる事ができない。両手をついてなんとか体を起こそうとしたものの、何故か転んでしまった事が急に恥ずかしくなり道路の上で陽菜はアルマジロのポーズをとって丸まってしまった。
「陽菜ちゃん大丈夫かい?!」
駆け寄った店長は実際に野生のアルマジロに触れる様に慎重な速度で陽菜の背中をさすった。
「店長、、クボさんが。。」
体を丸めたまま顔をあげた陽菜は店長に不安に満ちた視線を向けた。
外の異様な光景に慌てて飛び出してきたのだろう。店長は薄手のシャツの上から重そうなコートを着ているだけの格好だった。すこしだけ体が震えている。店長は陽菜の言葉に背後を振りかえる。
「タチバナくんが間に入ってくれているみたいだよ」
「えっ。。」
両手をついて体を起こすと数メートル先では何処から持ってきたのか雪かき用のスコップを振りまわしているタチバナくんが見えた。
しかしその姿はまるでわがままなペットに振りまわされている飼い主のようで、存外重量があったスコップにタチバナくんは体をひっぱられているようだった。大男とクボは、そんなタチバナくんを訝しがる様な目で睨みながらもお互い距離をとるように離れながら様子を伺っている。
「とりあえず陽菜ちゃんは店の中へ入ろう。」
店長はそう言って陽菜の体へ手を回すと少し強引に立ち上がらせた。
やはり片足をくじいたらしい。寒さで感覚が鈍ってはいても刺す様な痛みが感じられるのが分かった。陽菜は痛めた足を労わる様に店長の体へ体重を預け、なんとか片足で立ちあがった。
「大丈夫かい。」
「はい。すみません店長。。」
と、こちらの変化に視線の横で気付いたのかクボが声をあげた
「おい新入り!こいつなんとかしろ!」
反対側の大男もクボに賛同するような視線を陽菜へ向けているのが分かった。
「タチバナくん!もういいよ!もうやめて!」
陽菜は目の前でスコップを振りまわし続ける男へ叫んだ。
と、タチバナくんはまるでその合図を待っていたかの様に急にスコップを放り投げると、電池が切れた玩具の様にその場にしゃがみこんでしまった。興奮しているのか目を回しているのか魂の抜けた様な顔をしている。
タチバナくんのその顔が昔デパートで観た大声で鳴く鳥の人形にそっくりで陽菜は少しだけ笑いそうになってしまった。



数分後、陽菜は薄明かりの灯るコラフのテーブル席でクボと大男と向かい合いながら座っていた。
少し離れたカウンター席では店長が淹れてくれた珈琲を飲みながらギターケースを傍らに置いたりさの姿もあり、そして、陽菜の隣には、、
「マジなんなんすか!」
何度も聴いた同じ台詞を繰り返すタチバナくんが座っていた。
夜も遅いというのに無理を言って作ってもらった店長のナポリタンを一皿たいらげ珈琲をひとくち飲んでからこの調子だ。
喋るのに夢中なせいで口の周りがオレンジ色になっていることに気付いていない。クボさんの話を聴きたいのにさっきから延々と自分の話ばかりしていて陽菜はいつこの時間が終わるのか困り顔が隠せないでいた。
事務所からパイプ椅子を持ってきた店長がタチバナくんをいなすように声をかけながらテーブルの横に腰をかけた。
「まぁまぁ、とりあえずは二人とも落ちついたみたいだし、いいじゃないの」
店長は柔らかな笑顔でクボ達へ目を向けるが、それとは対照的にクボも大男も眉間に皺を寄せながら腕組みしたまま動かない。こうして並んで観ると元からペアの怒りっぽい神様の銅像みたいに見える。
視界の外、奥の窓からは見える夜は相変わらずまだ雪が降り続いていた。
「クボさん、、なにがあったんですか。」
店長のおかげで会話が途切れたタイミングを見て陽菜は声をかけた。
陽菜の問いかけにクボは口をむっと付きだして不満そうに睨み返す。
こんなに露骨に感情を見せるクボさんは初めてだ。先程の喧嘩騒動にも驚いたが、ずっと謎に包まれていたクボのプライベートに踏み込んでしまったような、聴いてはいけないなにかを問いかけた様な、、底知れぬ不安とそれに伴って湧いてくる不思議な興味が陽菜の中には渦巻いていた。
陽菜の目を見つめたまま動かないでいるクボ。陽菜はそれに応える様に何かを受け止めるような視線を送り続けた。

先に口を開いたのはクボではなく、大男の方だった。




自費出版の経費などを考えています。