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9月。猛暑の後の急な肌寒さが押し寄せた晩、その電話はかかってきた。
音楽を聴いていた陽菜は携帯の呼び出し音に気付かず、微細な振動をかろうじて感じることで咄嗟にイヤホンを外した。
自室の丸テーブルにノートを広げていた陽菜は電話をかけてきた番号未登録の相手を液晶越しに思案しながら、壊れ物を扱うようにゆっくりと通話ボタンを押した。
「はい、もしもし、露木ですが。」
しまった。相手が誰か分からないという状況なのに、変に気を使った為か自分の苗字を堂々と名乗ってしまった。が、もう遅い。
「やぁやぁ、電話でてくれてありがとう露木さん。中崎です。覚えてるかな」
陽菜は受話器越しの低い声を頼りに脳内の該当人物を探す。中崎。誰だっけ。何故だろうか、無関係の橘くんが苦笑いした顔が浮かんできた。
人の顔と名前を覚えるのが苦手な陽菜を、まるで「露木さーん。ダイジョウブッすか?」と彼に笑われている様な気がして陽菜は橘君をかき消す。
どうやら今日の営業終わりに最近気になっている動画配信者の話を無理矢理されたのが頭にこびりついているせいらしい。
断りを入れておくが月日を経てしても陽菜は橘くんの話には興味が無いままだった。故に今日も橘君の一方的な独演会だったことは言うまでも無い。
あまつさえ配信者の名前が「ヒラメ」だか「アイナメ」だかどちらだったかと橘君が妙に長時間拘ったものだから陽菜もなんだかその事を頭の片隅に残す形となった。
そんな知らない人の名前なんてどっちだっていいよ。私そもそも興味も無いしなんでそんな話を延々とされなきゃならないんだろう。ていうか橘君ちょっと汗臭いし。
「もしもし、露木さん?」
橘君の事を意図せず考えることをしてしまっていた陽菜は、無人島へ到着した救助隊の様な中崎の声にはっとした。
「えーっと、青葉祭りのときに、一度お遭いしましたよね。東北大で非常勤講師をしております。小峰にはゴリマンジャロ?とか言われてたかな。」
陽菜の頭には雀踊りに夢中な煙草を咥えたマンドリルと、名峰キリマンジャロに鎮座するゴリラの二頭が瀑布と共にイメージとして優雅に舞い降りた。
「あー!ゴリランジェロ。。じゃなくて、中崎さん、お久しぶりです!すみません、携帯にまだ番号を登録していなくて。」
5月の祭りの時に中崎に名刺を渡されてから数えて四ヶ月だ。ここでも陽菜は自身のまだ登録していないという発言を口にしてから省みた。
加えて彼を思い出したという表現はここでは適切ではなく、陽菜の頭の中で電話の向こうの相手はどう頑張ってもマンドリルのままだった。顔が思い出せない以上仕方ない。
「思い出してくれましたか。久しぶりだね。突然の電話申し訳ない。いま少し話せるかい」
中崎は煙草を今日も吸っているのだろう。言葉節々の息遣いで煙を吐いているのが分かった。断る理由もないので陽菜は了承を口にする。
「ありがとう。実はね、水無月先生の作品が完成して、その、なんだろう、お披露目会ではないのだが小さな集まりをすることになってね。露木さんさえ良ければ参加してみないかというお誘いだったんだ。」
中崎さん、マンドリルなんて思ってしまってごめんなさい。だってまゆさんがゴリラとかいうから、でも実際中崎さんは少しゴリラっぽいし。でもごめんなさい。
思わぬ突然のお誘いに、陽菜はくだらない事を詫びながら瞬間言葉をつまらせたが、順当に理解をする形で自分を落ち着かせると言葉を返した。
「えぇ、、本当ですか。すごい。。ありがとうございます。絶対参加します。いや、参加させてください。場所と日程はいつなんですか」
本来憧れの人物との対面とあれば万感の想いに叫び声をあげたかったが、中崎の淡々とした口調も相まってか何処か遠慮がちに陽菜は喜んでいた。
「あぁそれはよかった。私も実際には誘われている側だからまだ詳しいことは知らないんだ。申し訳ないが追って連絡する形でもいいかな。」
「大丈夫です。仕事中だと電話に出れないかもしれません。その時は折り返しますね。今度はちゃんと番号登録するので」
陽菜は自分自身の過去の横着な行いを中崎のお願いに乗じてさり気なく誤魔化した。片手で素早くノートの端に「番号登録!」とメモを取る。
それじゃあまた。と電話の向こうで煙草の煙を吐いた中崎はゆっくりと電話を切った。陽菜は携帯をそっとテーブルに置くと、胸元で小さくガッツポーズをする。
一瞬、橘君に自分の頭の中を支配されそうだったが、そこからマンドリルが、いや、中崎さんが素敵なお誘いを携えて救いだしてくれた。陽菜は改めて中崎へ感謝する。
手元に置かれたオーディオプレイヤーから伸びたイヤホン。耳に入れるとギターの音色と共に流れてくるのはジョンデンバーのカントリーロードだ。
今夜は興奮して眠ることが出来無さそうだ。陽菜は溢れ出る水無月コウタロウへの想いを抑え込むようにペンを握り、再び目の前の執筆作業に向かった。

同日。同時刻。
市内を横断する東北本線の高架橋の下、まばらな住宅街の中に時代に取り残されたような小さな神社がひっそりと在る。
巨人の片足の様な一本の御神木には注連縄が巻かれ、つつましくもこの土地に在りながらも連綿と暦を紡いできたであろう泰然さが感じられる。
一月前の夏の宵には真っ赤な提灯を神社の入り口にぶら下げ、近隣住民の無病息災などを願ったであろう形跡が微かに残っていた。
見渡す必要もない小さな敷地の隅にジャケットを着た背の高い女性が立っている。竹の様にぴんと背を伸ばし仁王立ちで難しい顔をしているのはクボだった。
遥か昔、戦に向かう武将隊が全勝を祈願し密かに立ち寄ったとされる。そう綴られた白い看板をしげしげと見つめた後、隣に置かれた「祈武錬心」と彫られた石碑に目を移した。
石碑には立派な明朝体で深々とその文字が刻まれ、その他に際立って何かがあるわけでもないのにクボはしばらくじっとその石碑を睨みつける。
見回り中の警官がクボを見つけたなら間違いなく職務質問をするだろう珍妙な光景だ。夜もふけた神社で腕を組み、仁王立ちで石を睨みつけているのだ。相当に怪しい。
「わしも、彼らのように強くなれるだろうか。。」
クボはしぼりだすような声を小さく吐くと、組んでいた両手をほどき、今度は相撲の四股に似た体勢をとった。眼前の石と一試合始めるつもりなのだろうか。
視線を「祈武錬心」の石碑から外さないまま、片足を上げクボは悠然と四股を踏み出した。ここで地鳴りの様な音が鳴れば勇ましいものだが、蹴り上げた砂利の弾かれた音が静かな闇に消えるのみだった。
二度、三度と四股を踏み続けるクボの背後、遠方からなにやら騒がしい声が聴こえてきた。時折笑い声を交えながら静かな夜を強引に呼び覚ますような会話をしている。
どうやら男女数人のグループのようだ。段々と距離が近づくにつれ先程までの騒音が、会話として内容がこちらに聴こえて来るようになる。
「いやーそこの居酒屋の店員がまたすげー変なヤツでさぁ、敬語の使い方がよぉ、むちゃくちゃ変なのさ。」
「ていうか、酒が薄すぎだよね。あたし一回マジで声あげようかと思ったし。全然酔えなくてコスパ最悪。」
「まぁやっぱ女の髪はストレートだな。外国かぶれがさ、くるくるーって毛先巻いてるのとか全然かわいくねっつーの。」
それぞれの会話が全く噛み合っていなかったが、不思議な一体感があるのは同じ酒を酌み交わしている所以だろう。時折獣の様な雄たけびを上げている。
世の中を罵倒する言葉を吐きながら彼らはクボの居る神社の脇を悠々と通り過ぎていく、と、若者の一人が敷地の外から四股を踏むクボを見つけて立ち止まった。
「おぉ!!おいリョウタ!あれあれ!あれだよ!あれこそが俺のタイプの女!女はやっぱりストレートヘアーなんだよなあ。」
この日のクボはめずらしく髪の毛を結んでおらず腰ほどまでに伸びた黒髪を夜風になびかせていた。奇しくもそれが彼らをこの場に引き止めてしまう引き金になってしまう。
「んだよコウジうっせーなあ。女はちょっと髪巻いてるくらいがいいんだよ。。って、あぁーでも確かに結構イケるかも。。おいルカも来いよ」
「なになにーコウジのタイプの子ってどんな感じなのー、えてかこんな時間にあの人なにしてんのここで、ウケんだけど。」
三人とも手にはウイスキーやウォッカなどの小瓶を持ちながら、もう片方の手でコンビニ袋を振り回している。コウジと呼ばれた屈強な男が神社の敷地に乗り込んできた。
酔っ払ってはいるが道路ですれ違うならば間違いなく誰もが道を空けるであろう男らしさが体から滲み出ている。重りでも付いているような皮製のブーツが砂利を鳴らす。
「すんませーん。ちょっとお姉さん、なにしてんすかぁ。おすもうさんの真似?」
クボは背後に立つ男の存在など無きものとするように無表情でいたが、四股を踏むのをやめると、ぐるりと男に向き直った。クボの鋭い視線が酩酊した顔を捉える。
「なにか用か。」
四股の姿勢から背を伸ばしたクボの意外な背の高さに男は少したじろいだが、手に持っていたジンを一口ぐっと流し込むと再び口を開いた。
「あぁーいやーお姉さん、いいっすよねえ。むっちゃ俺のタイプなんすよ。一目惚れっす。神社の中心で愛叫んじゃおうかなー」
男は酒の匂いの染み付いた唾を飛ばしながら初対面には近すぎる距離で仁王立ちするクボに話す。視線がクボの体を撫でるように動いているのが分かる。
「なるほどな、だが、結構。そんなことよりもお前、相当に酒臭いぞ。黙っていたほうがよっぽど男前だ。わしに声をかけるならば一度出直してこい。」
クボの一言を受けた男のプライドが粉々になる音が聴こえた。男は酒臭い息を溜めて一呼吸つくと再び口を開く、先程までとは考えられないくらい低い声だった。
「あのさぁ、こっちが綺麗だって褒めてんだから女らしく素直に喜べよ。今のあんたの発言は聴かなかった事にしてやるからさ、俺と一緒に飲もうぜ。」
男は言うや否や、丸太の様な片腕をクボの首周りに廻すとぐっと締め付けた。はち切れそうなレザージャケットからは猛々しい香水の匂いが鼻を衝いた。
「おいリョウタ、ルカ、お姉さん一緒に飲んでくれるってよ。俺ら仲良くやれそうだぜぇ。なぁお前らこっち来いよ。」
空いた片腕でジンを飲みながら男は遠巻きに見ていた二人に声をかける。余りの声の大きさに近隣の住民までもが男に呼ばれているようだった。
「成程な。わしの事をきっと神さんは観てくださっていたようだ。ならば、ひとつ、やってみるか。」
男に羽交い絞めにされ力なくマネキンの様に揺られながらクボは希望に満ちた目を輝かせながらそう呟く。
「んだぁ姉ちゃん、なんか言ったか?」
「いいや、なんでもない。せっかく用意していただいた華舞台だ。断る理由は無いだろう。いかせてもらうぞ。」
クボがそう言うと同時に頭上の高架橋を東北本線が唸りを上げ通過していく。スライド式の映写機の様な連なる光が境内の彼らを照らした。
列車の車輪の軋む音は、今夜、神社の境内で起こった出来事を夜の闇へ掻き消すように響いていた。


自費出版の経費などを考えています。