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文化芸術政策 -市町村-

地域における文化芸術の振興(あるいは衰退)を考えたとき、必要になってくる要件のひとつに地方公共団体からの補助金/交付金が挙げられる。特に都市部ではない、いわゆる「田舎」「地方」でのアート活動を考えると、人口相対的にカネという要素は重要。

まず、現在の日本における文化芸術(広義の「アート」活動)を経済的な側面から見た場合、頂点が狭小な極端な三角形を形成しているのが現実である。アートマネジメントや文化政策を学んだ人にとっては、世界中で勃興する「中間層」が「存在しない」世界が、日本の「文化芸術」と表現しても大きく間違っていないというのは実感として理解できるだろうと思う。

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しかしながら、この事実、知らない人は本当に知らない。勉強不足のまま公務員(という職業に甘んじた)者が「文化芸術」などを政治経済・社会的活動として「語ろう」とするときに顕在化しない問題が浮上する。例えば、

「この地域でアート活動を望んでいるなら、場所を提供すればよい」

「つまり公共として持ち出しのお金はいらないってことや」

とか。冗談じゃない。あほかと。

確かに、行政の思惑や経済的利潤とは無関係に、アーティスト自らが想いを馳せる地域で、自分の活動=表現活動を成し遂げたい、と思う人もいるかもしれない、いるだろう。私たちの「アート」への対峙の仕方は多様で、基本的には個人の主観と知識に依るところが大きい。だから「アート」がもたらす社会的意義を一般化することは容易ではないし、相対的な意味において、世界中全ての人々(全人類)に共通する美的価値観など存在し得ないのも事実だ。

しかし、1/100の確率で聴衆(あなた自身のことです)の琴線に触れる、そういった作品に出会った末に精神が賦活する、反応する、考えさせられる、ということは往々にしてある。例え西洋美術史など知ろうともしない愚鈍な僕のように、あるいはピカソやバンクシーがわからなくてもだ(これも僕)。

本題に戻るが、行政が用いる「計画」系の文章(こんなんに力入れていきますよ!)を読むと、流行りの用語(多くはカタカナ)が散見されることが多い。そこには文化や芸術についての見解も出てくるが、内容を理解していないが故にコピペされた単語だけが、神経を抜かれた奥歯のように宙に浮く。同じ公務員ではあるが僕としては、イライラを通り越して、

「ダメだコリャ」「ナンジャコリャ」

と凹む。凹んだ末に嫌になる。その作業は、本来的には、未来を創っているとも言えるのだが、希望を抱くことができない。彼らには知に至る努力が足りない。情熱もない。ただ流行りの用語を用いて、それなりの体裁を整える。だから用語だけが宙をうつろう。こうなれば未来予想図ならぬ計画図も「一体、誰のためにやっているのか?」と問わざるを得なくなる。嫌になる。

図1

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図1 はネットから頂いた文化財に関する三角形。左の三角形(青)を文化芸術に置き換えると頂点は同じようなものだが、裾野は3倍ぐらいには広がる。

簡単に言えば、頂点に君臨する(なぜそれに価値が与えられたのかわからないとしても)「アート」が、数億円、数千万円、数百万円とか・・・それに対して、なんていうの、頂点部分から下は霧(キリ)?雲(クモ)?霞(カスミ)?がかった世界でしかない。一般的に注目されるのは霞ではなく明瞭に見える化された頂点部分である。逆に、裾野に注目してみると、面積こそ広いものの、彼らの作品は、表現を体現する場さえ存在していない(用意されていない)場合がほとんどである。

資本主義社会・高度消費社会は "今のところ" 崩壊しない。

だから、当たり前の話だけど何をするにもカネが必要になるのはわかる。アートだって同じだ。仮にアーティスト自身が懐から持ち出した場合、多くの場合は赤字になるだろう。だから個人的には、入場料やチケット販売は妥当・・・っていうか鑑賞者や聴衆の心を少しでも揺さぶる、考えさせる、感じさせる、癒す、地域に賑わいを創出するといった特殊なスキルに対して相応の対価を払うのは個人的には当然だと思う。あなたは医者に診てもらった後に診療費を払いませんか?

ところが、多くの場合は社会通念として、未だに多くの人々は、アーティストに対して「成功してナンボ」といった "Businesslike" な思考が働き、極端な三角形の頂点部分ばかりに視点が偏る。アートや芸術は、もっと日常生活と身近なはずなのに。

その結果、

「「営利」活動を行っている(芸術)団体/個人に対して公共団体として公金を出すことは難しい(≒無理)」

と判断されがちになる訳だ。

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しかし、裾野にあるアーティストが、自身の作品を、公共の場において表現(提供)すること、そこで料金等の経済活動が発生することを、単純に「営利活動」という文脈で解釈していいものだろうか、という疑問は残る。仮にそれを「営利」として補助を拒絶した場合、彼らの活動自体が制限され、最終的には稀有な才能を見出すことさえ不可能になってしまうという悪循環に陥る。

それって今日の日本における文化芸術に関わる問題の根っこじゃないか? その帰結として、例えば音楽に目を遣れば、「ナントカ坂」とか「ナントカAKB」といった欲望を喚起とした経済的営利追及だけが重要視された芸術が跋扈するシーンが展開されているんじゃないのか?もうブルーハーツは出てこないかもしれない。

はてさて、

「公的な “補助” (金)とはなにか?」

この問いは、公共団体における浅はかなアート・マネジメントのために。

「アーティストの諸君は、後続のためにも、決してボランタリー精神だけを中心に愛を叫ぶことなかれ」

これは個人的な理想的見解として。
少しでも考える材料になってくれればと思います。

"Sing us a song, you're the piano man. Sing us a song tonight"


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