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#61 スマート・イナフ・シティ

"スマート・イナフ・シティ"を読了。
今年は街づくりについて思考を深めたいと思ったところ、友人に薦めてもらった最近の一冊を早速チョイスしてみた。
今自分たちがまさに意識していることを快活に言ってもらっている感覚があって、すごい良かった!
ただ、「市民を消費者のように扱うことで〜」のくだりは、自分たちとしても注意しないといけないな〜と内省した。
市民が自治体に対して要求ばかりしてしまい、その結果、市民が自分たちで街のコミュニティなどを自発的に作っていけなくなってしまうような環境づくりはやっちゃいけないなーと感じた。

特に印象に残ったのは下記の3点。

  • 人々の生活が重要。そうでなければ、テクノロジーやデータを面白半分に無駄にしてしまう。テクノロジーではなく人間に焦点を当てた探求プロセスが必要である。

  • 根本的な問題は、市民を消費者のように扱うことで、民営化され、怒りに満ちた市民、政府への期待を裏切られ、民主主義への関与と公共サービスへの支持の基礎となるべき公益への関心を育むことができない市民を育てることになるかもしれないということだ。

  • スマート・イナフ・シティが問うのは、「どのようなデータを収集すべきか」や「どのくらいのデータを収集すべき」ではない。「市民の期待や権利を侵すことなく、データを利用しながら、政策目標を達成するにはどうすれば良いか」である。


以下、学びメモ。
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・★スマート・シティの世界によくあるギャップ★
→企業が可能性と利益を考えているのに対し、自治体職員は厳しい財政的なトレードオフと、テクノロジーが実際に公的価値に結びつくまでの複雑な道のりについて考えている。
・テック・ゴーグル(あらゆる問題をテクノロジーで解決できるという思い込み)の根本的な問題点は、そもそも複雑な社会問題に対する鮮やかな解決策などというものはほとんど存在しないということにある。
・スマート・イナフ・シティとして主だった成果が生み出されるのは、既存の慣習を思慮深く改革する新しいプログラムや政策からであり、テクノロジーはこうした新しいアプローチを補強する重要なツールという立ち位置である。
・自動運転や交通に関する現実的な予測は、まず誘発需要を考えることから始めなければならない。自動運転車を街中に導入し、走行速度や車両密度を上げるのは、道路の物理的な交通容量を増大させることとほとんど同じことを意味する。道路の交通要領が増えれば交通需要も増加する。人々はその恩恵を得ようとより多く運転するようになるだろう。こうした誘発交通量の増大は、特に通勤時間帯のピークで渋滞を引き起こし、高速移動のメリットを大きく損ねることになる。
・何より自動運転車という夢物語は、歩きやすさやコミュニティの活力よりも、交通の効率性を優先させるという過ちを繰り返している。
・★人々の生活が重要。そうでなければ、テクノロジーやデータを面白半分に無駄にしてしまう。テクノロジーではなく人間に焦点を当てた探求プロセスが必要である。★
・テック・ゴーグルを介することで、我々は、民主的な意思決定と市民参加における根本的な限界(権力、政治、公へのモチベーション)を、非効率性と情報不足の問題だと見誤ってしまう。
→★政治学者のコニー・ロビンが指摘するように、政治とは「社会的支配をめぐる闘争」であり、競合する利益に関する交渉ごとを伴うものである。★
→ブルーノ・ラトゥールは「我々が政治的な”凡庸さ”として軽蔑するものは、我々に代わって政治家にさせる妥協の集合体に過ぎない。政治を軽蔑するなら自分自身を軽蔑すべきだ。」と述べている。さらに、教育や刑事司法などの多くの分野では、権力や資源の配分だけでなく、善良で公正な社会に関する道徳的ビジョンが根本的に対立することによって意見の相違が生じる。つまり、民主主義とは、単に好みを集計して論理的な決定を下すプロジェクトではないのである。
・★根本的な問題は、市民を消費者のように扱うことで、民営化され、怒りに満ちた市民、政府への期待を裏切られ、民主主義への関与と公共サービスへの支持の基礎となるべき公益への関心を育むことができない市民を育てることになるかもしれないということだ。★
・★「単なる非効率」はシステムに不必要な遅延をもたらす。しかしそれとは対照的に、非効率によって「市民が経験を共有し、お互いに意義の範囲と認識を高める」ことが可能になった時、非効率は意義のあるものになる。★
→意義ある非効率は、遊びのアフォーダンスに開かれた市民システムであり、利用者が単に決められたタスクをこなすだけではなく、ルールの中で、またルールで遊ぶという選択肢を持てるような市民システムを可能にする。
・「参加型予算」とは、住民が自治体の予算の一部をどのように使うかを直接決定できるよう、政府が住民に権限を与える仕組みである。市民として政府の役人たちと協力して自治体のプロジェクトを進めていく中で、住民は行政の役割や限界をより深く理解してゆく。このようなプロセスを通じて、市民は社会関係資本を形成し、地域社会の中でリーダーシップと主体性を育み、公共政策がバランスをとらなければならない多様安易ーずや価値観を理解するようになるのだ。
・★スマート・イナフ・シティは、最も単純な市民活動のハードルを下げるのではなく、まずは市民活動のプロセスを改革し、次にテクノロジーを導入して、実施方法を改善する。★
・スマート・シティが約束する進歩の多くは、データ分析と機械学習アルゴリズムに依存している。広くあまねく利益がもたらされるとされているものの、これらの技術では歴史的な政治体制や現在の政治体制を超えてゆくことができない。また、データのバイアスよりも重要なのが、アルゴリズムに埋め込まれた政治性である。アルゴリズム自体にすでに大きな社会的・政治的影響をもたらす優先順位が組み込まれていることが多い。
・★スマート・イナフ・シティが問うのは、「どのようなデータを収集すべきか」や「どのくらいのデータを収集すべき」ではない。「市民の期待や権利を侵すことなく、データを利用しながら、政策目標を達成するにはどうすれば良いか」である。★
・かつての首都リオデジャネイロでは、通りや広場が社交の場となり、祭りや子どもたちの遊び、大人たちの交流が行われていたのに対して、ル・コルビュジェの都市デザインを参照したブラジリアは人混みのない都市になり、平等性を生み出すどころか、ただ匿名性を生み出しただけであった。ブラジリアはエリートたちは賞賛していたが、政治的対立と労働者の反乱を通して社会的・空間的に隔離された都市となり、人口の大部分が都市周辺の無計画な違法居住地に住むようになった。
→ジェイン・ジェイコブスは「アメリカ大都市の死と生」の中で、これらの都市計画を「都市の略奪」だと述べた。ハイモダンな都市計画家たちが「混沌」や「路地の生活における無秩序」として認識していたものが、実際には「複雑で高度に発達した秩序の形を表している」ことを明らかにした。彼女は、都市を無数の相互に関連した構成要素で満たされた「組織化された複雑さ」の生態系とみなし、現代の数学的手法によるシステム化や最適化が不向きな対象と考えたのである。
→もし、ル・コルビュジェが生きていたらスマート・シティを最も推進する人物に一人になっていただろう。歴史の教訓を念頭に置くと、スマート・シティはもはや明るい未来を象徴するものではなく、すでに追求され、非難されてきたイデオロギーに向かって逆行しているように見える。

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