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0円さん、毒母と決別する 【年間交際費0円さんの今日 #6】

#6 0円さん、毒母と決別する


何かが引っかかったのを感じ、私は掃除機を止めた。掃除機の口に詰まっていた埃まみれの何かをつまみ出す。それは、母からもらったお守りの小袋だった。

私は返信できずにいた母からのメールを思い出し、心臓が凍りそうになった。
「私を助けて」と言われているようだった。


ドロップアウト


ちょうど年末の大掃除をしているところだった。
私といえば、今年はすべての人間関係を終わらせてたった一人になることを決意した年だった。
その時の勢いで連絡先やメッセージアプリなども削除してしまった。
身も心も部屋もすべてまっさらな状態で新年を迎えるつもりだった……こんなときに出てくるなんて。

昼食を取り終え、簡単な支度をした私は、バスの時刻を気にして足早に家を出た。ちょうど到着したバスに乗り込む。なんとか間に合った。あわてて家を出たため、車内で時間を潰せるものは何も持っていなかった。私はカバンの中のお守りを手に取ると、十年前のことを思い出していた。



十年前、私は二十五歳だった。就職して実家を出てから四年が経っていた。
当時の私は事務員として働きながら細々と生活していたが、社会に適応できずに心を病んでいき、この頃にはいよいよ限界がきていた。
そのうち憂鬱な状態が続いて欠勤が目立ち、とうとう仕事を辞めてしまった。

しばらくすると失業時の手当も貯金も底をつき、生活は困難になっていった。
けれど、私は親を頼ることができずにいた。

父は厳格な人で、精神面の都合で仕事ができないなど認めないような性格だった。
亭主関白で、母や私をよく怒鳴り、常に緊張しながら生活していた。
電話口にでることも滅多になかったため、そもそも父との連絡手段はなかった。

母に現状を話すことも怖かった。
幼少の頃から、「あんたはダメなんだから」「あんたのせいだから」と母に叱られ続けていたからだ。
暴力を受けたこともあるし、罰として家の外に放り出されたこともあった。
欲しいもの、やりたいこと、すべてに「ダメ」「ダメ」と否定されて生きてきたし、母からはずっと「うちは貧乏なんだから」と教えられていた。

辛かった過去を紛らわすかのように、私は飾り棚にある母からもらったお守りを見つめた。
就職先が決まって実家をでる時、母が近くの山のふもとにある神社でそのお守りを私に買ってくれたのだ。

とにかく、なんとかしないと……。


もがき


最初はクレジットカードのキャッシング機能を使ってお金を作った。
しかしすぐにカード一枚の上限金額に達し、新たにまた別のカードを作った。
カードが三枚になる頃には、一枚の月の借金を返すためにもう一枚で限界までキャッシングをし、火の車になっていた。
クレジットカードが限界になると、銀行のキャッシングローンを組んだ。

しかし、借金が増えることで精神状態はますます悪化し、一向に働くことができなくなっていた。
負債が百五十万ほどになると、もう自分ではどうにもできないと自覚した。

私は恐る恐る実家に帰った。そして、震える声で母に窮状を訴えた。

「お母さん、私ね……ずっと働けていなくて、あの、精神的にまいっちゃって、仕事辞めちゃって、お金がなくて、借金もできちゃって、ちょっと、その……た、助けて欲しいんだけど……」

するとパソコンでパズルゲームをしていた母は、こちらを一切見ることなくこう言った。

「こっちに迷惑かけないでよ。もう、お母さんはね、楽しいことだけして生きていきたいのぉ」

その言葉を聞いた私はその場ですべての感情がフリーズしてしまう。体も動かない。
数十秒ほど経っただろうか、それから私は何も言わずにすっと実家を出た。

バスに乗り込み、無感情で一時間を過ごし、アパートに着いた。
鍵をしめて電気をつけ、床に座り込んだとき、どっと涙が溢れてきた。
たまらず声を出し、何度も何度も泣き続けた。その日は一睡も眠れなかった。
ときどき感情がたかぶって、あちこちの物にあたって、部屋の中をぐちゃぐちゃにしてしまった。
母からもらったお守りはどこかへ消えてしまっていた。


毒母の刷り込み


その一件以来、私は心療内科を受診するようになった。
先生に母との関わりを話すうちに、今まで正しいと思っていた母がおかしいことに気づき始めた。

まず、私の家は決して貧乏ではなかった。
しっかりした一軒家があり、食事にも困らなかった。なにより、専門学校にも進学できたし、奨学金も借りていない。冷静に考えればまったく貧乏ではないのだが、私は母に言われ続けたことで、うちは貧乏なんだから我慢しなきゃいけないと思いながらこれまで生きてきたのだ。

同時に、母からは、父がいかに無能でダメな夫であるかを教えこまれていた。
父の稼ぎが少ないからうちは貧乏だという解釈になっていた。
両親は昔から仲が悪く、食事中もほとんど無言か喧嘩ばかり。私はずっと両親の通訳係だった。
母には何度も「離婚したらまどかはどっちについてくるの?」と聞かれた。
「お母さんだよ」と言うしかなかったが、この問いを突きつけられるたびに、心臓をえぐり取られるようだった。

刷り込まれていたせいで嫌な父親だと思っていた時期もあったが、心は常に不安定で揺らいでいた。
そして、心療内科で先生と面談を繰り返すたびに、本当は悪い父親ではないのではないかという気持ちの変化があった。
母は父と私の壁になっていた。私と父が仲良くなり、父が私を連れて行かないように様々な策を講じていたのではないか。
先生からは母親としばらく距離を置くことを勧められた。


宣告


心療内科に通い始めて数ヶ月、私は意を決して実家に電話をすることにした。
母が電話に出た場合は無言で切った。そしてまた数日後にかける。母が出ると無言で切る。これを何度も繰り返すうちについに父が電話にでた。これを待っていた。

父と話すことも怖い。もう傷つきたくもない。それでも、情けないけれど、私はもう生きていることも辛すぎて、どうにかなってしまいそうだった。
だから今度は父に、自分の窮状を必死に訴えるしかなかった。

翌日、私の銀行口座に父から二百万円が振り込まれた。

心療内科に通い、借金も解消したことで、次第に精神状態も安定して再就職も叶った。
けれど、あのとき感じた母への失望はその後も薄まることなく、ことあるごとに嫌悪感を着火させる火種として心の中に抱えたままでいた。




バスを降りると、登山道のいい空気が鼻を通った。
田舎の実家から少し離れたこの場所は、小さな山々が佇み、一面に草木が広がっている。

私はその道を歩きながら、返信できずにいた母からのメールを思い出す。

「年明け手術することになったから。付き添いよろしく。お父さんは相変わらずダメだから。近々うちに戻ってきて」

夫婦とは不思議なものだ。お互い会話もしたくないのに何十年もひとつ屋根の下で暮らしている。
そんな余談が浮かび、私は、心臓をえぐり取られるような感情はもうここにはないことに気がついた。
神社が見えてきた。

私は参拝を終え、お守りを返納した。

そして、帰りのバスに乗る前に、持ってきた一枚のハガキをポストに投函した。
母へ返信するために。

「手術の件、私は付き添いできません」

また、いい空気が鼻を通った。私はゆっくりと、何度も深呼吸を繰り返した。





年間交際費0円さんの今日 〜0円さんの憂鬱編〜
#6 0円さん、毒母と決別する

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