見出し画像

青い果実

「事実」

早とちりしてむしりとった青い果実の味。
いつまでもいつまでも口の中に渋く残る。
幼い頃の珈琲の苦味よりずっと不愉快に。
そうして虚ろな表情で
彼女はそれを噛みつぶす。
そうしてつぶれた塊は、彼女の細い喉を通る。

いつまでもいつまでも噛みつぶす。
いつまでもいつまでも飲み込んでいる。

それでも腹は満たされず、後悔ばかり満ち満ちて
あの頃の珈琲の味を懐かしむ。
気づいた時にはもう遅く、
におい惑わす甘い香りは死神の誘惑。
いくら青い果実が口の中に広がろうとも、
満たされぬ空腹は彼女のすべてを蝕むばかり。
とうとう視界も奪われて、誘われるまま香りの方へ。
聞こえてくるのは優しい優しい死神の声。
見えない目からは涙が溢れ、
彼女はようやく満たされた。

そうして彼女が消えた後、
果実はそのまま朽ち果てて、地べたを甘くにおわせる。
ときどき鳥がつついたり、虫がわいたりしていたが、
今ではそれも無くなって
裸になった木の枝の
かさかさこすれる音だけが、
だれに気付かれるでもなく
寂しく泣いてた彼女の声を、

いつまでもいつまでも真似ていた。
いつまでもいつまでも泣いていた。


「真実」

彼女は忙しない街に紛れて、
だれに気付かれるでもなく泣いていた。
不自然に浮かぶあどけない面の上に糸のような涙がひと筋、
ゆっくりゆっくり流れていた。
私はときどき風になって、彼女の冷たい肌に触れた。

ある時彼女に跪き、温かな愛を乞う人がいた。
彼女はその人が乞うたびに、
優しい言葉と温かい涙を零した。
その人は満たされて彼女のもとを去っていった。
彼女の涙が冷たくなったのを私は確かに感じた。
彼女は少し痩せたように見える。

彼女はいつも与えた。
言葉や涙、温かな愛、そして自らを。
人々は満たされて、彼女は飢えていった。
彼女の痩せた体に人々は気付かない。
あどけない頬の丸みのせいだろうか。
彼女の冷たい涙に人々は気付かない。
彼女が与えた慈愛の涙のせいだろうか。
彼女の若さと優しさは、彼女の苦しみに覆い被さる。

そこに神様が植えた甘い果実の成る木は、
飢えた彼女のためだったのだろうか?
それならば果実の実るまでの時間、果実が熟すまでの時間が
彼女に何を与えたか。
神様は一体どんな表情で見ていたのだろう?
彼女に罪があるとしたら、まだ青い果実を食したこと。
その後彼女のすべてを蝕んだ苦しみは、それに対する罰なのだろうか?

とうとう私は彼女に声を掛けた。
私は人々を死に誘うものだと分かっていても。
それでも私は彼女に与えることができる。
優しい言葉、温かな愛、そして涙。
求められるまま、彼女を攫った。
彼女を蝕む苦しみと、心を縛る時の世界から。

彼女が消えた世界に残る朽ち果てた木を、
神様はどんな表情で見ているのだろう?
そしてまた人々はその木にも気付かない。
一羽のカラスが細い枝にとまって少しだけ鳴いた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?