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「違和感」が好きな私が抱く違和感。

違和感とひとことで言っても、いろんな違和感がある。
写真だったり、絵画、文面、人、ファッション、などなど。

「もと」の状態と、なんらかの「違い」を見つけて、「ん!?」となる。

要は「気づき」である。

私はそんな違和感が好きだし、敢えて違和感を作り出すこともある。

仕事で言うと、コラムであったり、料理を表現する際に、「丁度いい違和感」を意識して作業していることがある。

コラムであれば、教科書通りではない表現や言葉の使い方。
敢えて「おかしい?」と立ち止まらせることで、そのことについて考えて欲しいがゆえだ。
何度と先方より教科書並みの訂正をされることも多いが、それが私の表現なのだ、と主張させてもらっている。
そんな指摘されるリスクも分かった上で敢えてはずす。作り出す「違和感」だ。

目を引くためだったり、考えるきっかけとなったり、立ち止まらせたり
そんな理由で違和感を使うし、また私自身もそんな違和感に気づくのが好きなのだ。

そんな違和感が好きな私が、最近ずっと気になる違和感がある。

いい違和感ではない。

それは、障がい者やLGBTQIA+に対する周りの環境に少し違和感を感じる。

私は、目の前の人を「その人」としてみている。
障がい者という呼び名も気に食わない。みんなそれぞれ個性があるのに
特徴として区分けしているのだろうが、誰にでも当てはまるしことだし
まぁ、当人も気にする人、気にしない人といるとは思うが、
世界中、いろんな人がいるのだから、おじさん、お子さん、そんな類いの感覚でいるのだけど、そうもいかない感じ。

もはや、この投稿をしている時点で
あなたも気にしてる、話題にしてるじゃないの!と思う方もいるかもしれない。

普通に、お互いの個性や長所を認め合って、
接して生きていけばいいのにと思う。

話し方を変える、近づかない、同情する、「してあげる」みたいな感覚の違和感は
好きじゃない。

みていて、聞いて、違和感しかない。

まだまだ私が未熟なんだろうか。

「してあげる」感の違和感が一番嫌いだ。
違うと思う。私が間違っているのかな。うまく言えないのかな。

あ、席を譲る、とか、サポートするという意味の「してあげる」は誰にでもしていいと思うし、そういう親切心の「してあげる」は大いに賛成だし、
すべきだと思う。(ひとりよがりにならない程度に。)

線引きしたいわけでもないから黙っていればいいものを、
と自分に言えるんだが。。

そんな違和感のモヤモヤを最近たまっていたのを
noteに出させてもらった。ありがとう。答えが見つかったらまた投稿してみようと思う。

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