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本当のことはなかなか言えないもんだよ。あまりにも言葉にならないんだもの。

それぞれの10年。本当にそう思う。
それぞれの経験が言葉にならないほど、深い。
長い年月なのか、あっという間だったのか。
その深さから、学び得たもの、失ったもの、それぞれ何も計ることなど誰にもできない。

私ら親子は母子家庭。
当時、息子をおんぶして冷や汗を流しながら
ドラッグストアの列に数時間並んでいた。(震災後)

自分ら親子でいれることにまずこの上なく有り難みを感じる。

だから、これまで起こった大変だと思うことも
贅沢のように思えるから、
敢えてこんなに大変だった、辛かったとは記さないでおく。

私の父は、東日本大震災の総合指揮官であった。(後で知った。)
表に公表されている方は代表の名前で
実際に指揮を取り、判断を毎日徹夜で迫られ動いていたのは父だった。

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(イメージ写真は全てネットより使用しております。)

私が幼少の頃から、
父は家族より他人を助ける人だ、という認識で

それが私の中では当たり前で、そんな父を尊敬していた。
それもこれも
「自分の身は自分で守れ」という
日常的に教え込まれていたからかもしれない。

実際に、こうであれ!という言動はなかったが
父の働く姿をみて、小さいながらにも察していたのだと思う。

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母はそんな父を恨んでいた。

いつも肝心な時にいない。
出産の時も、行事の時も。
それを常々話していたのを子供の耳にも入っていた。

父は退職する際、そこを後悔していたようだ。
もっと時間を取っていればよかった、いろんな人と話をしておけばよかった、と。

ま、過去のことはしょうがない。
(現在一生懸命取り戻すかのように、母や孫に尽くしてくれている。感謝)

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そんな家族の一員である私は、逞しくなったのかもしれない。
地震や災害、何かあれば父は出ていく。
どんな運命なのか、兄も警察になったので、家族の男らは皆でていく。

女、子どもでどうにかしていかなくてはならない状況なんて
当たり前だった。そんな中、弱音なんて言える状況じゃないし、
そんなの選択肢には無かった。

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普段、家族でお酒を飲んでいても、
自主的に私だけは飲まないでおいた。
いざ、何かあった時に動ける人が必要だと思ったからだ。
(年に数回、守られない日はある。やさぐれた時w)

なので父の仕事柄、
ニュースにならない事件や様子を話してくれたり
職場に行くと、いろんな場面を目の当たりにしてきた。

聞いた人の魂を削ってしまうんじゃないかと思って
言えないことも多い。
戦争の話をする感覚なのかなと勝手に思う。

で、結局何が言いたいかというと、
日常の生活の中に有り難みは沢山存在する

当たり前と思って過ごさず
狭い気持ちにならず
普段から相手を思いやって生きていきたいね、です。

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「会いに行ける」って
世界中のどこにいたって

「近いね!」と言ってきた。会えるんだもの。

震災関係なく言ってたけど、コロナ禍もあった10年目。
こういう節目や改めて、やっぱそうだよねと思う、そんな今日。

今日だから、ではなく
いつでも日々、自分を偽りなく生きたいように生きる。

今、会いたい人はいますか?
会える人は会った方がいい。

目の前で会えない人は、身近にいるそうです。
おすすめ動画。

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↑これをみると、ものすごく気持ちが救われます。

想い、目を閉じれば会えるかな。
私はそうやって会ってました。

会いたいね。

#それぞれの10年

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