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【留学体験記②】とにかく渡米してしまった

前回の①を書いてから1年以上経っていたが、続きを書こうと思う。

日本国内での英語研修を全て終えると、渡米の日まで10日ほどしかなかったと思う。
合宿の期間中からもうビザの準備は進んでいて、後は実際の持ち物の準備や会っておきたい人に会いに行くなど、とても慌ただしかった。
1浪して全落ちして絶望感に打ちひしがれていた私が会いたかった人なんて居たのか…という話だが、突然異国に住むことになり精神的に切羽詰まっていたのか感傷的になっていたのか、私にしては思い切った行動に出た。ずっと会っていなかった小学生の頃の親友と6年間同じクラスでずっと好きだった人を呼んでプチ同窓会をしてもらった。中・高と女子校ですっかり男性への免疫を失っていた私は、ずっと大人になってしまったその彼を前に緊張してしまい、親友Kちゃんを間に挟まないとほぼ何も話せなかった。自分で呼んでおいて何をやってるんだ。笑 


旅立ちの日はすぐにやってきた。
箱崎の東京シティエアターミナルのビルの中で、留学機関のスタッフと父兄達が集まってちょっとしたセレモニーが催された。家族との別れに泣いている面々が多かった気がするが、私はとにかく早く居場所の無い日本から離れたかったからケロリとしていた。
見送りに来てくれた両親、父方の叔父叔母夫婦、仲良くしていた母方の親戚の女の子と一緒に食事をして、「じゃあ、行ってくるね〜」と笑顔でバイバイし、振り返りもせずに家族と別れた。
腹が決まればワクワクしか無かった。

その留学機関からその年渡米したのは確か総勢30名近くだったろうか…。一旦全員コロラド州デュランゴのフォートルイス大学にてサマープログラムを履修する。そのうち私を含む10名はそのままデュランゴに残り、他はみんな9月からの新学期に向けて各々の入学予定の大学に散らばることになる。



通常、東京→サンフランシスコ(またはL.A)→テンバー→デュランゴのフライトが一般的だと思うが、その時は確か特別便か何かでアリゾナ州フェニックス空港へ直行だった。
長いフライト中、後ろの席で暇を持て余した男性陣が恋バナで盛り上がってるのが聞こえてきた。
実は私はすでに山梨の合宿(May Program)中に気になっていた人がいたのだが(←免疫なさすぎて惚れっぽいのはデフォルト)、その彼が私に気がある…的なことを話しているのが聞こえてしまった。彼らのすぐ前に座っていた私に、わざと聞こえるように言っていたと思う。。
私は俯いて寝たふりをしながら赤面していた。


フェニックスにて乗り換え。
デンバーに寄った記憶がないので、そのまま直でデュランゴ着だったかもしれない。忘れてしまった。
ただデュランゴのラ・プラタ・カウンティ空港に最初に降り立った時、プライベートの空港ですか?という位こじんまりとしていて、さらに見渡す限り広がる山並みと地平線…という景色を目の当たりにして、「何も無いにも程があるだろう、これからここに本当に住むのか?やって行けるのか…?」という、思わず笑ってしまうほどの驚きとある種の絶望と、もう後に引けないな…という覚悟のような気持ちが湧いてきたのはうっすら覚えている。

お迎えのバン数台に分かれて乗り込み、学校まで約30分くらいのドライブだったろうか。大学は夏休み中なので、敷地内にある学生寮のうち1棟が丸ごとサマープログラム中の我々の専用の寮になった。コの字型2階建て、2階が男性陣で1階に女性陣。1部屋2名。2つの部屋の間にシャワールームと洗面台。水道から出る水は山からの恵まれたミネラルウォーター。硬水だがとても良い水を使いたい放題(アパートに住んでからも水道代はタダだった)。
私の部屋のルームメイトは、日本に居る間はクラスが違ってほとんど面識がなかったNちゃん。黒髪色白の日本人形みたいな可愛らしい女の子で、おそらく黙っていたら大人しく見られるタイプだと思うが、中身は割とたくましく肝の座った面白い女の子で、すぐに仲良くなった。そして私たちの部屋には男女問わず、なぜかよく人が溜まりに来ていた。笑


サマープログラムは日本での合宿と違い、現地の生活に慣れる目的もあったので、少しの座学とあとは課外活動という名の観光が多かった。キャンプに行ったり、ホットスプリング(温泉)に行ったり、独立記念日の花火大会に行ったり、湖でボートに乗ったり、リバーラフティングしたり、ロデオを観に行ったり、夏のスキー場でリフトに乗ったり、お隣ニューメキシコ州のサンタフェに行ったり…とかなりアクティブに過ごしていた。

授業がある時はグループごとに先生やメンターたちがフレキシブルに車であちこち連れて行ってくれたのだが、こと週末となると我々には足が無いので、ひたすら歩いてダウンタウンや町から少し離れたショッピングモールまで行ったりもした。帰りは疲れて歩けなくなり、何人かでヒッチハイクし、ピックアップトラックの荷台に乗せてもらって寮まで戻ったこともあった。

私は1浪していたので周りより1つ2つ歳が上で、少数派の歳上グループとよく一緒にいた。1人社会人経験者のお姉さんがいたのだが、彼女だけがお酒を買える年齢だったため、私たちは付き添いに徹して一緒にビールを買いに行き、どこかで調達した小さな炊飯器を持ち込み、1人部屋だった彼女の部屋に集まってこっそりおにぎり女子会したのも良い思い出だ。


ところで、来る途中の飛行機の中で話題になっていた、ひょっとして両思いかも?!…と思っていた相手だが、結局うまく行かなかった。
別の大学に行くことが決まっていた彼は志が高く、自分の大学に行く前にきちんと英語に慣れておきたいと、現地のアメリカ人達となるべく時間を過ごすことに一生懸命だった。私はもう自分の通う大学に着いてしまっているので、そういう意味では必死さはなく、途中からはもはやウザがられていたように感じた。
一方で(何度も言うが)同世代の男性に免疫のなかった私は、自分に好意を抱いてくれたかもしれないと知っただけで彼のことをすっかり好きになってしまっていた。彼にもう気持ちが無いのはわかっていたが、気まずい空気のまま終わる前に気持ちだけは伝えようと、ある夜、告白に踏み切った。彼からは「これから違う大学に行くし、自分の夢を優先したい…」みたいな事を言われ、私は返す言葉も無くきちんと振られた。
でも、その後彼が別の女の子(すでに英会話ができる人で発音もとても良く、チアガールにでもいそうなハツラツ健康的美人。彼女はボストンの学校に行くことが決まっていた。)を好きになっていたのは誰から見ても明らかだった。もちろん他にもその女の子のことを好きな男子もいて、私同様デュランゴ居残り組の1人がその元気ハツラツ美女に振られた。居残り組の振られたもの同士、よく慰め合ったりもした。そんな気持ちを男女の仲間で共有できたのも当時の私には新鮮で、なんだか少し嬉しくもあった。

ーー余談だが、その頃どこかの部屋から曲が流れ始めると、たちまち寮の中で大合唱が起こっていたのがこの曲。アオハル。。
Mr. Children “Tomorrow Never Knows”



色々あったサマープログラムだが、当然別れの日はやってくる。
最終日はみんなでバーベキュー。派手にはしゃいだ。寮に戻ってからもデュランゴを離れる仲間達との別れが名残惜しくて、朝まで語り明かし、全員ほとんど寝ていなかったと思う。そして泣き腫らした目のまま、居残り組の私達はなぜか少し正装し(笑)、総出でまだ薄暗い早朝の空港へ、旅立つ仲間達を見送りに行った。

全員の見送りを終えると、我々10名はガランとした寮に再び戻ってきた。その時の寂しさと言ったら…それまでに体験したことのない空虚感と寂寥感だった。一睡もしておらず、しかも泣いた後だったのでふわっと眠くなり、しばし横になって居眠りをしたものの、ルームメイトのいない部屋に1人は耐えられなかった。隣の部屋に数人集まって、ぽつりぽつりと重たげに何かを話しながら、それぞれのホストファミリー達が迎えにくるのを待った。
居残り組の我々は9月の新学期が始まるまでの2週間ほど、バラバラのホームステイ先に滞在することになっていた。仲間を見送った後の寂しさにどっぷり暮れていたのも束の間、我々もまた次々とそれぞれの家族の元に引き取られて行ったのだ。

私はピアノのある家を希望していたので、ホームステイ先は町の教会になった。古いレンガ造りのなかなか立派な教会だ。ホストファザーは牧師さんでもあり、ショッピングモール内にある地元唯一の楽器店の店長さんでもあった。
教会のピアノを練習して良かったのだが、なんとなく日本でやっていた曲をさらう程度で、結局何を練習すれば良いのかわからず、大した練習はできなかった。
ホストマザーは時々ピクニックに連れて行ってくれたり、ドライブインシアターを初体験させてくれたりとちょっとしたリクリエーションも用意してくれた。食事は夜だけみんな一緒で、朝と昼はあるもので適当に済ませて…という感じに放っておかれて私的にはとても楽だった。
他の仲間たちは町から少し遠くのお家に行ってしまったので、この期間はごくたまにしか会えず、最初は心細かったのだが、慣れてくれば割とあっさり過ごしたホームステイ期間だったように思う。
寮の開く日、ホストファザーと娘ちゃんが車で私と荷物を送ってくれて、一式部屋まで運んでくれた。何度もありがとうを伝えて、さらりと別れた。

さあ、ここからいよいよ本格的に大学生生活が始まる…。

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