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ゼロ葬について調べる


樹木葬辞典より抜粋

今は50代のわたしだが、60代まで生きていたら、どこか潰れなさそうな葬儀屋さんに「ゼロ葬」の申し込みをしておこうと思う。火葬場で遺骨を処分してもらうやり方だ。

わたしは6年前に亡くなった愛兎の骨をパウダー状の真空パックにしてもらった。わたしが死んだときはあの仔の真空パックと一緒に焼いてもらうのだ。そして火葬場から遺骨を持ち帰らずそのまま処分してもらう。

わたしの終活は信用できそうな葬儀屋に生前予約をして精算までしておくこと。
その際必ず「ゼロ葬」でお願いしておくことだ。夫には了解をとってある。
子どもたちには理解してもらえるように折に触れて話すつもりだ。

わたしは亡くなった人を思い出すのに物理的な場所はいらないと考えている。

人は心の中で生き続けるし、自分の都合で「思い出せる」ことは人間の特権だ。

私にとって先祖や墓ってなんのはなしですか?だ。
たまたまわたしは母から生まれた。それだけだ。

わたしは先祖に手を合わせるとかの感覚がスコーンと欠如している。先祖と呼ばれる人から奇跡のような命のバトンがあり、今の自分がいる。確かにそうだろうが別に墓に手を合わせて「ご先祖さま、ありがとうございます」とはならないのだ。

例えば、実家の仏壇に置いてある祖母の戒名はわたしとってただの紙なのだ。仏壇はただの箱。箱と紙に向かって何故手を合わせるのかがわからない。

人の気持ちを向ける先は「モノ」に対してではない。心の中の思い出なり、記憶なりにだ。

わたしにとって「モノ」はただの物質である。
だから骨はただのカルシウムなのだ。
この感覚を理解してくれる人は周りにいない。


うちの実家は浄土真宗らしい。昔は月参りのお坊さんが来ており、わたしもその場に居合わせたときは赤い経本を見ながら仏説阿弥陀経をボソボソと唱えていた。そのあとお坊さんから少しお説教があり世間話をしてお茶を飲んで帰るのが一連の流れだった。

日本で1番多いとされる浄土真宗はそもそもお盆もお彼岸も何もしなくて良いのだという。仏壇も必要ないらしい。
浄土真宗は庶民が南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ行けるという救いだったはずだ。お墓に魂は宿らない、亡くなった人はすぐに成仏してあの世へ行けるのだ。

この教えがどこでひん曲げられてしまったんだろう。金のにおいがプンプンするじゃないか。親鸞上人もびっくりしているだろう。


えーっと。…話が反れた。
とにかくわたしはゼロ葬で自分を終わりにしたいという話をしている。

親は具体的な話をしてくれない。
子に迷惑をかけたくないとよく言うが何ひとつ具体的な話は無い。
縁起でもない話こそ、早く話してくれ。
80すぎていよいよヤバい頃になってからようやく話すとかやめてほしい。
自分は死ぬからいいけど後始末をするのは子どもなのだから。

自分の死ぬ話は冗談が言えるうちに家族に話しておくほうがいいと思う。


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