【書評】悪意といかに向き合うか――『ぼくのメジャースプーン』
辻村深月は物語の中に哲学的な思索を織り交ぜることに長けた作家であるとつくづく思う。「大衆文学」的要素と「純文学」的要素のバランスが優れており、かつ、ほどよくブレンドされているのだ。
大衆文学と純文学の両立
例えば、『傲慢と善良』では、マッチングアプリで知り合った恋人が失踪するというミステリー要素を基本軸に、他者を選ぶことの「傲慢さ」について描かれていた(これについては、同書の文庫解説を手がけた朝井リョウも指摘している)。『琥珀の夏』では、ある白骨遺体に関する事件の解明を中心に置きつつ、親元を離れて暮らす子の葛藤、親子愛の本質について語られていた。
大衆文学がストーリーの展開に、純文学が登場人物の心理描写に重きを置く以上、この二つの要素を両立させるのは、決して容易なことではない。あちらを立てれば、こちらが立たない。トレードオフなのだ。「直木賞」「芥川賞」とすみ分けがなされていることからも、一篇の物語で大衆文学と純文学の二兎を追うのは、きわめて困難であると言えよう。
辻村深月がすごいのは、この二兎を捕まえるどころか、しっかりと手懐け、自分のものにしているところにある。綿密かつ大胆なストーリー展開で読者を物語に引き込むと同時に、登場人物が直面する矛盾やジレンマを通じて、読者に「思考を巡らせる」ことを促す。これは卓越した「文学的膂力」を持つ著者だからこそなせる技で、素人や凡人にはとうてい真似できない偉業だ。
そんな著者の強い腕っぷしは、本作『ぼくのメジャースプーン』でもいかんなく発揮されている。
「ぼく」の企ては成功するか
ある小学校で飼っていたウサギが、何者かに惨殺されるという凄惨な事件が発生する。犯人は医学部に通う大学生で、ウサギの飼育に熱心だった小学四年生のふみちゃんは、事件を機に心を閉ざすようになってしまった。ふみちゃんと仲良くしていた「ぼく」は、自らの「能力」を武器に、犯人に制裁を加えることを企図する――。
前述したとおり、本作もまた、大衆文学と純文学のそれぞれの要素を引き出すことができよう。
大衆文学的な要素としては、ウサギ小屋を襲った犯人と、それを追い詰める「ぼく」の行く末である。主人公の「ぼく」は「言葉をもって相手を操る力」という能力を駆使して、犯人への復讐を決意するが、とはいえ「ぼく」はまだ小学生。幼い主人公が企てる計画は、果たして成功するのだろうか。結末が気になるストーリー展開に、読者はつい作品世界に没入してしまうこと請け合いだ。
他方、純文学的な要素としては、「底知れぬ悪意と対峙したとき、われわれは何をなすべきか」について思索を紡いでいる点が挙げられる。
犯人の愉快犯的な凶行で1人の少女が絶望の淵へと追いやられた。しかし、動物は法律上「器物」として扱われるので、犯人に対しての処罰は軽微なものにすぎなかった。そこで、「ぼく」は犯人に対して制裁を加えることを企てる。「因果応報」という言葉があるとおり、悪い行いに対しては悪い結果が返ってくる。犯人が厳罰に処されてない以上、自分自身の手で制裁を加える――。これが「ぼく」の根底にある意思である。
では、この「ぼく」の意思は、はたして「正しい」と言えるだろうか。そう疑問を呈したのが、物語の中盤から登場する「秋山先生」という人物だ。秋山先生は「ぼく」と同じ力を持ち、これまでに幾度となくその力を発動してきた。そんな秋山先生は、復讐に向かって一直線に進む「ぼく」をいなし、復讐という行為の重大さや周囲への影響、そして代償について説くのだった。
本作の独自性は、この復讐という行為について、キャラクターの会話を通してとことん突き詰めたところにある。私自身、秋山先生と「ぼく」との対話を追うなかで、「自分ならどうするだろう」とつい考えてしまった。これこそ純文学の醍醐味である。
本作の話に戻ろう。秋山先生との対話の果てに、「ぼく」は能力を発動し、犯人に対する復讐を遂行するのか。この結末は、ぜひ本作を手に取って確かめてほしい。
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