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彼女はそれでも海を嫌いになれないと言った

 海沿いのその家は、ふたりの生き方が全部詰まっていた。

 笛を吹き、絵を描き、物語を作りながら暮らしていた彼女が選んだのは、地元の土にこだわり、焼き物を作る陶芸家だった。昔から決められていた事としか思えないほど自然に、ふたりが出会って、結婚するのを目撃した。

 海沿いの新居は、一階は土間が広めに取られていて、旦那さんの作業場になっていた。家の漆喰は職人さんと一緒に、ふたりで塗ったと聞く。階段を上がると、大きな窓のある、ひと続きの部屋に出る。

 台所でもあり、居間でもあり、アトリエでもあり、客間でもあるその部屋の窓からは、春は桜が、夏は花火が、とても美しく見えた。

 ふたりとも友人が多く、季節の折々に、一品持ち寄りの会を開催して、自宅に人を招いた。私も招かれて、何度かお邪魔した。

 木の匂いがして、清涼な風が通る部屋に集まる人たちは、みんな気持ちのいい人たちばかりで、いつお邪魔しても楽しかった。

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 今、ふたりは、遠い島で暮らしている。

 七年前、大きな地震があった日、あの波が、ふたりの生き方が全部詰まった家を飲み込んだから。

 あの日、お腹の大きかった彼女が、小学校の校舎の窓から見た光景について、内陸に暮らす私は、語る言葉を持たない。

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 島を訪れた時には、あの日から三年が過ぎていた。その間には、私自身にも色々な事があった。

 一年目は、自分の生活を立て直すだけで精一杯だった。海沿いに比べたら、被害を受けたとはとても言えないけれど、内陸もそれなりに非日常の中にあった。

 二年目は、ようやく自宅を引っ越す事が出来て、生活は少し落ち着いた。けれど、ずっと待っていたコウノトリが突然訪れて、なのに、突然引き返したりしたので、どこかへ出掛けたりする精神的な余裕は無かった。

 三年目は、まだ霧の中にいた。

 三年が過ぎて、少し霧が晴れた時、年若い友人を喪った。最後に交わした言葉が楽しそうで幸せそうだったのが、衝撃に拍車を掛けた。

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 幸せなありふれた日常が、予告もなく、突然失われる事があると知った。

 会いたいと望んでも、誰よりも側に居ても、顔を見る事も叶わない事があると知った。

 またねと挨拶を交わしても、そこにどんなに祈りを込めても、祈りが叶えられない事があると知った。

 今は、今しかない。

 今、会いたい人に、今、地上で会えるチャンスがあるのなら、今、会いに行かなくては。チャンスを逃してはいけない。

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「今度、オカリナのライブを開催する事になりました。チェロとピアノとのセッションです。なかなか難しいとは思いますが、もしもその頃に夏休みを取られるご予定があったら、頭の片隅にでも入れて頂けたら嬉しいです」

 彼女からの手紙が届いたタイミングは、会いたい人には会いに行こうと決意を固めた時だった。

 手紙の文章も、同封されたライブのチラシも、イラストも、ライブのタイトルの付け方も、何もかもが彼女らしかった。

 会いたい。今、彼女に会いたい。

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 飛行機は、天候次第では飛ばない可能性があった。でも、私は晴れ女だ。根拠無く行けると信じてチケットを取った。そして、信じた通りになった。

「こちらは雨です。月夜のライブと銘打ってしまったので、晴れ女さんの到着をお待ちしております」

 彼女のメールに少し笑って、飛行機に乗って、携帯電話の電源を切った。

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 空港からタクシーで宿に向かう時には、既に景色に圧倒されていた。

 私の住む町と同じ国なんだろうか。樹木の様子がまるで違う。見た事の無い木々しか植わっていない。枝の様子も葉の形も。こんな景色の中では、吹く風の色さえ違う気がする。

 宿の部屋は海に面していた。雨が上がったばかりで空は曇っていたけれど、曇り空の下ですら、海は鮮やかな色をしていた。薄曇りでも、こんなにきれいな場所なんだ。晴れたらどんなにきれいなんだろう。

 彼女からの便りには、この島の植物は常緑樹がほとんどなので、一面の新緑や紅葉は、なかなか見かける機会が無いとあった。

 手紙にはいつも、美しい島の様子がふんだんに描かれていた。それでも時折混じる郷愁に、いつも胸を打たれていた。彼女がどれだけ故郷を愛して生きてきたか、それを知っているだけに。

 だけど島の景色は圧倒的だった。彼女からの手紙の通りに美しい。郷愁とともに、いつも書かれていたのは、新しい故郷への愛情だった。

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 ライブ会場になったのは、ちいさなカフェだった。久しぶりに会った彼女と彼女の旦那さんは、全く変わりない様子で、だけど、すっかり島に馴染んでいた。

 ライブの受付を頼まれていたので、段取りを打合せして、開場した。客層は、ふたりの友人がメインだという話だった。ちいさな子供を連れた親子連れが多かった。

 受付をすると、来場した人たち、ひとりひとりの顔を見る事になる。ひと目見ただけなのに、感じの良さが伝わってくる人たちばかりだな、と思った。海沿いのあの家で出会った、気持ちの良い人たちと同じ様に。

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 ライブは二部構成だった。第一部はクラシックの演奏家ふたりと、彼女とのセッションだった。チェロとピアノとオカリナの音色は、今まで聞いた事のある彼女のライブとは、またムードが違って新鮮だった。

 会場は、自由で大らかな空気だった。赤ちゃんがぐずったり、ちいさな子供たちが親御さんに話し掛けては、しーっと言われたり、誰かが会場を出入りしたり。でも、そんな事さえ、音楽の一部になっていた。

 音楽って、文字通り楽しくて、そして自由なものなんだな。そんな事を思った。ほんのちいさな子供の頃から、こんな風に楽しく音楽に触れられたら、幸せだろうな。

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 第一部と第二部の間の休憩時間に、ふと、窓の外を見たら、月が出ていた。彼女を手招きして、窓の外を指差した。

「さすが、晴れ女さん」

 彼女は微笑んで、そしてまた準備に戻って行った。

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 第二部は彼女のソロライブだった。昔のライブでも披露してきた曲を、MCを交えながら、島の大らかな空気の中で、いくつも披露してくれた。

 聴きながら、色んな事を思い出していた。

 知り合ったきっかけは、とあるウェブサイトの掲示板だった。そこから彼女本人のサイトを見に行って心惹かれた。ファンのひとりとしてコメントを入れて、同じ県内に住んでいると知って、会いに行った。

 歳は十歳くらい違っていたけれど、最初に会った時から、何だか波長が合った。

 友人として会うようになり、ライブにも行くようになり、自然に隣に彼が寄り添うのを目撃するようになり、結婚披露の二次会に招かれた。

 結婚のお祝いに訪れたのは、気持ちの良い人たちだった。会は音楽と踊りに溢れて、リズム感の無い私でさえ、ヒールの靴を脱ぎ捨てて踊った。

 海沿いの家の窓から見た、桜の事、花火の事。そしてたくさんの気持ちのいい友達の事。たくさんの会話。たくさんの笑い声。

 そして、あの日。

 あの日を潜り抜けて、今がある事。

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「ここで、新しい曲を聞いて下さい。海の曲です。私は、あの日、被災地と呼ばれる場所に住んでいました。海の近くでした。自宅は二階まで津波に飲まれて、色んな悲しい事があって……でも、不思議と、それでも、海を嫌いにはなれないんです」

 そんな言葉と共に奏でられたのは、優しいメロディーだった。

 ただ、じっと聴いていた。彼女の新しい故郷で、彼女の新しい故郷の感じのいい人たちと一緒に、彼女が懐かしい故郷を想う曲を。

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 翌朝は快晴だった。空がどこまでも青い。そんな空の下で見る海は、前日とはまるで様子が違っていた。海もどこまでも青い。この空と海を見るだけの為に、この島を訪れる人も多い事だろう。

 チェックアウトをして、ロビーで彼女と落ち合った。ライブの緊張から解き放たれた彼女は、前日よりも、更に自由に見えた。

 彼女の車で、島のあちこちを巡った。彼女が大好きだという色んな場所を。ジェラートのお店。織物の記念館。豆腐料理のお店。染めの体験が出来る工房。紅茶の美味しいカフェ。そして、彼女と旦那さんが大切にしている、無農薬の果物の畑。

 地元の土にこだわり、焼き物を作っていた陶芸家は、新しい故郷の土にこだわり、夫妻で果物を作っていた。

 農作業の時は、小さなスピーカーで、音楽を聴きながら作業をしているらしい。果物は、こだわりの土だけではなく、音楽にも育てられていくに違いない。

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 ふたりの自宅は、古い平屋の一軒家だった。ふたりのお子さんと、彼女のライブの為に島を訪れていた、彼女のお父様にお会いした。

 居心地の良い空間だった。置いてあるものひとつひとつが、何もかも、彼女らしく、彼らしい。あの海沿いの家と同じ様に。

 海からは遠く、どちらかと言うと、山の気配のある場所だった。

 海の美しいこの島で、家を探す時の条件が、海から距離があり、標高の高いところだったと言うのを聞いて、彼女と彼の傷の深さを思った。

 彼女のお父様も交えて、様々な話をした。あの日からまだ三年しか経っていなかったから、まだ色んな事が、誰の中でも未消化のままだった。

 彼女と彼が、あの日見た光景についても耳にした。ふたりが、自分の目で目撃していながら、全く現実感が無く、何が起こっているのか信じられなかったという、その光景について、今なお私は、語る言葉を持たない。

 それでも、海を嫌いにはなれないんです。

 その言葉の重さを思う。

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 ふたりのちいさな娘さんは愛らしく、私がお土産にした紙風船で、いつまでも遊んでいた。

 遊びすぎて紙風船が破けてしまい、上の娘さんがべそをかいた。彼女はマスキングテープでささっと紙風船を修復し、破ける前よりも可愛らしくした。娘さんはすぐに、にこにこしながら、また紙風船で遊び始めた。

 きっとこのちいさな人達は、この島をためらいなく故郷として育っていくのだろう。自分の両親が、深い傷の果てに見つけて、たどり着いた新しい故郷を。

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 彼女の家に泊めてもらった翌日もまた、快晴だった。最初は人見知りしていたふたりの娘さんも、すっかり打ち解けてくれた。

 朝食の後、旦那さんは畑に出掛けて行き、彼女は私に声を掛けてきた。

「もし良かったら、今日は散歩に行きませんか? 近くに、私がこの島で一番好きな景色があるんです」

 そう言われて、その景色を見たくならない訳がない。お父様と娘さん達と共に、彼女の背中について行った。

 緩やかな山道を登った先で、突然視界が開けた。

「ここから、うちの畑が見渡せるんですよ」

 見晴らしの良いその場所からは、全く海は見えない。でも、この景色もまた、この島でしか見る事の出来ない景色だ。

 私の町では見かける事の無い形の木々の向こうに、広く草原が続く。更にその向こうに、遠く、彼女と彼の畑が見える。

「あそこに見えるのってバナナ? 自生してるの?」

「島バナナですね。自生してるのもありますし、誰かの持ち物もありますよ。あれはどっちかなあ」

「あっちの木の葉の形、変わった形だけど、よく見ると、一枚の葉が幾つにも分かれてるのね。初めて見た」

「ああ、この辺は、台風が多いから。あの木の葉も、元々は大きな一枚の葉なんですけど、台風で破けて、あんな風になっちゃうんです」

「そうなんだ! 最初からあんな形で生えてくるのかと思った。聞かないと分からないものだね。でも、きれいね」

 山の気配の濃さは、彼女と私の故郷の山を何となく思わせた。生えている植物は、初めて見るものだけど、何故か懐かしい。

 懐かしさを感じるのがどうしてなのか、急に思い当たって得心した。昔から彼女が描いてきた絵の、空想世界に登場する植物に、この島の植物は、どこか似ている。

 不意に、見た事の無い蜻蛉が、目の前に止まった。ちいさな娘さんたちは、興味深そうに蜻蛉を見つめた。彼女と彼女のお父様が、娘さんたちをひとりずつ抱き上げて、蜻蛉をもっと良く見えるようにした。

 一家の後ろ姿は、幸せな一枚の絵に見えた。

 深い傷の果てに、彼女と彼が選んだ新しい故郷で、新しい幸せが、健やかに育っていく。

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 島を訪れた日から、また少し時間が過ぎた。

 あの後も、何度か、彼女一家が帰省するタイミングで、会いに行って、楽しい時間を過ごす機会があった。

 ふたりだった娘さんは三人になり、それぞれの個性が年々際立つようになり、見ていて本当に飽きない。

 きっといつかまた、私は島を訪れるだろう。あのどこまでも青い空の下で、彼女と彼と三姉妹の幸せな笑顔を見る為に。

 私は晴れ女だから、きっとその日も快晴だと、根拠無く信じている。

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。