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池谷友秀という写真家 ①見えないものは美しい


Tomohide Ikeya " BREATH "


生きているってなんだろう。死ってなんだろうって、誰でも考えたことのあるテーマだと思う。動物は生まれたときから自分で理解しているルールに則って生きているけど、頭でっかちの人間は紙に書いて約束して、守らせる部隊がないとまわっていかない。それをしていても、時々別の考え方が出て、戦争とかいう意味のわからない状況に陥ってしまう。

じゃあ、生死も定義してくれよ、と思うけれど、これは本当に難しい。

個々で状況も条件も違うからに他ならないが、そこに感情というものがのってくるからだ。

さらに「死」については特に、知ることができない。

死というものの後にくる現象、もしくは来ない現象について憶測や研究、はては幻想にいたるまで、人間は死を知る努力を惜しんだことはない。宗教家たちは独自の定義で語り、きれいにしてみたり、穢れさせてみたり、必死で、それこそ「必」「死」で定義しようとしている。

でも絶対無理じゃん、と思う。


知らないこと、知れないことは、恐ろしい。


そして、知らないことというのは美しい。勝手に妄想できるからだ。


前を歩く美しいロングヘアの女性の顔、まだ見たことのないクラスメイトのマスクの中、朝すれ違ったトランクケースの男性の持ち物の中身、テレビに映るアイドルの全裸、一年先の自分。


すべて、美しい。

妄想の中にある何かというのは、本当に美しい。

トランクの中身はガムのカスでいっぱいかもしれないし、一年先の自分は現在よりもさらに太っているかもしれないのに、妄想の中のトランクケースはごみは一つもなくみっちりときっちりと書類が整えられているし、自分はお肌もつるつる、スタイルも良く、優しく微笑んでいて、モテないなんてまったくもって嘘のようだ。


理解できない、目の前にいない「死」の、なんと美しいことか。


美しいはずの「死」が自分の目前にせまってきたとき、人間はふと「いや、そんなにきれいなものではなかった」と妄想を恥じるのだろうか。それとも、やっぱりきれいだった、と納得するのだろうか。


その「死」をほんの少しでもいいから垣間見てみたいと思ったらどうしたらいいんだろう。

宗教書を読み漁ればいいんだろうか。
臨死体験をした人たちに話を聞けばいいんだろうか。
自分が死に近い状況を体験してみたらいいんだろうか。

池谷友秀という写真家がいる。

彼の写真は水中で撮影されているが、酸素ボンベや命綱などは一切ない。呼吸や水しぶき、苦しくて見開いた目やもがいている四肢、水でぐちゃぐちゃになった髪の毛がそのままに映し出されている。

初めて見たときには「静寂」を感じた。

飛び込んだ音やごぼごぼという呼吸音、水中でのシャッター音や撮影での器具の音、そんな音が想像できるほど躍動感のある写真なのだが、雑音がない。

ああ、死ぬかもしれない。
ここで終わりかもしれない。
見えない。苦しい。苦しいけれど。
なにか

何かにたどり着くかもしれない。

冷たい四肢に、震える指先。メイクだけではない、青白く透き通る肌、色のなくなった唇、紫色のつま先。

水に濡れた重たい布にからまり、筋肉は思うように動かず、息もできず、体温が奪われていく。

被写体は、死体のような色をしているが、目が、表情が、力強く生命を叫んでいる。

聞こえてくるわけではない。送られてくる。


いま、その瞬間、苦しくって、無理だと言いたくって、でも、何かこの先に、もう少し先に何か、もう少しだけ意識が保てたら、もう一ミリだけ指が伸ばせたら、あとほんの少しだけ水にぬれた布が大きくゆらめいたら

「死」のほんの片鱗が見えるような気がするから


そんな精神のやりとりが響いてくる。


作品のメイキング映像を見ると、写真家本人の撮影中の表情も、異様な集中と、緊張感と、自分自身も息ができない状態での撮影に対する並々ならぬ決意のようなものが見られて興味深い。

さて、この池谷友秀という写真家、縁あって実はちょっとした知り合いでもある。

続きは、私自身と池谷友秀さんについて書けたら。

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