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ピンク・フロイドとの死闘~“日本初の野外ロックフェス”箱根アフロディーテ編。 「ピンク・フロイドの道は“我慢と忍耐”の道なり」

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンと並ぶブリティッシュ・ロックを代表するモンスター・バンド【ピンク・フロイド】。ピンク・フロイド初来日公演となった日本初の大規模野外ロックフェス「箱根アフロディーテ」から50年を迎える2021年、超貴重な当時の映像等が発見され、『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』として日本限定で商品化となりました。

幻の映像発見の経緯や、一筋縄ではいかなかった商品化に至るまでの道程…偶然と奇跡の巡りあわせと我慢と忍耐の集大成で完成したこの作品についての悲喜こもごもの裏話を、メンバーのロジャー・ウォーターズとデヴィッド・ギルモアに面と向かって怒られた等貴重な(?)経験を持ち、ピンク・フロイドはじめ長年数々の洋楽レジェンドを担当するディレクター白木さんに、語っていただきました!初代ディレクターの石坂敬一氏の貴重なインタビューで当時の邦題秘話も掲載!あわせてお楽しみください。

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よくよく考えると今年は丑年。丑(牛)といえば『原子心母』のジャケ。12年に一度巡ってきた2021年の丑年はピンク・フロイドの初来日公演だった「箱根アフロディーテ」から50年目。そして、こんな年に丑ジャケ名盤『原子心母』の箱根アフロディーテ50周年記念盤なるものをリリース・・・なーんて、ちょっと出来すぎな話と思われるかもしれませんが、これからお話しする物語は、ちょっと怖いくらいの偶然に偶然が重なって、奇跡に次ぐ奇跡の巡り合わせによって生まれたもの、ここに至る奇跡の軌跡をこの場をお借りして記録しておきたいと思います。

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■人生を変える出会いは美術の時間

まずは、私とピンク・フロイドの歴史を少々。ピンク・フロイドとの出会いは伊豆大島で洋楽なんてなんの興味もない、丸坊主の野球少年だった中学2年生の時。美術の時間に「この音楽を聴いて想像する絵を描いてみろ」という先生の指示のもと、その時は何にも知らずに「なんか気持ち悪いなあ」なんて思いながら、オドロオドロしい絵を描いたんですが、ドラマティックなギター・ソロのパートになった時、なんか不思議な感覚を覚えました。音楽を聴いてイマジネーション膨らませることの楽しさを教えてくれたわけですね。その時聴いた曲が『アニマルズ』(1977年)の「ドッグ」という曲だったと後日知りました。そこから私の「ピンク・フロイドの道」が始まります。野崎先生、ありがとうございます。あれがなかったら人生変わってたかも。あれから44年後、私、ピンク・フロイドを担当しちゃって、こんな文章書いてます。


■ピンク・フロイドについて

PF紙ジャケ集合

デビューの『夜明けの口笛吹き』(1967年)以来、日本でのピンク・フロイドの作品は最初、東芝音楽工業(東芝EMI)からリリースされていました。ディレクターの石坂敬一さんが付けた「ピンク・フロイドの道はプログレッシブ・ロックの道なり」という名コピー、秀逸な邦題、『原子心母』(1970年)『狂気』(1973年)などの大ヒットによって、日本での地位を確立していきます。その後1975年『炎~あなたがここにいてほしい』からソニーミュージック(当時はCBSソニー)からリリースすることになり(ヨーロッパがEMIでその他の国がソニーという不思議な契約)、『アニマルズ』(1977年)『ザ・ウォール』(1979年)と次々と名盤を発表。『ファイナル・カット』(1982年)のあとロジャー・ウォーターズが脱退し、残りの3人でのピンク・フロイドが継続、『鬱』(1987年)発表後、1988年には今となっては最後の来日公演が行われ、“光と音の大スペクタクル・ショー”で日本人の度肝を抜きます。私も見に行ってまさにノックアウトされてしまいました。その『鬱』以来7年ぶりの新作となった1994年の『対(TSUI)』というアルバムで私は初めてピンク・フロイドの担当になりました。

いちファンだった頃はまさか自分がこのバンドの担当になるとは夢にも思わなかったので、担当になった時は天にも昇るほど嬉しかったんです。気合を入れてやるぞーっと。でも・・・すぐにわかりましたね、「ピンク・フロイドの担当なんてなるもんじゃない」と。


■アルバム『対(TSUI)』の邦題ができるまで

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『対(TSUI)』の原題は『The Division Bell』。今から思うとそのままでもよかったのかもって思いますが、邦題考えるのに1週間以上悩み上げましたね。先人の担当者の皆様も同じ気持ちだったでしょうが、邦題つけなきゃいけないという目に見えぬプレッシャーがあるわけです。ファンの皆さんの見る目も厳しいので、邦題つけるも地獄、つけないも地獄。でも音も届かなければ、ジャケットも全く来ない。何にも情報が来ない中、締め切りが迫り、今みたいにPCで検索なんてできる時代ではないので、英語の辞書や漢和辞典、熟語辞典他あらゆる辞書を片手に、歌詞を解読しながら付けたのが『対(TSUI)』。“ジャケットに像が2つ並んでるから「対」なんでしょ?”ってよく言われます。でも、実は邦題を付けた時は音も聴いてなければ、ジャケも見ていなかったんです。

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その後、EMI、ワーナーとレーベル契約が移行し、しばらく日本はソニーから離れていたものの、なんと何の因果か2016年に日本での発売は再びソニーからという契約になりました。その際は、他レーベルと契約の争奪戦もあり、各国の担当がピンク・フロイドのマネージャー4人に対してプレゼンをするという、なかなかシビれる機会がありました。そこで普通のこと言ってもしょうがないと思い、先述のピンク・フロイドとの出会いのことを話したんですね。そうしたら・・・結構ウケてくれて。そこで、ちょっと顔を覚えてくれたかもしれません。

結局、またこの時もヨーロッパがワーナー、日本含むその他の国がソニーから発売という形になったのですが、そこからLP、巨大ボックスなど、様々なプロダクツのリリースが始まります。それまでの経験上、ピンク・フロイドごとは、そうやすやすと簡単に物事は進まないってことは身に染みてわかっていたのですが、ディレクターの性(サガ)でしょうか、やっぱいろいろとやりたくなっちゃうんですよね。「ピンク・フロイドの道はプログレッシブ・ロックの道なり」なんですけど、でも、私にとっては「ピンク・フロイドの道は忍耐・我慢の道なり」という苦闘の歴史だったのです。

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■ピンク・フロイドとの地獄絵図

途中でカタログ作品がEMIに移ってからも、デヴィッド・ギルモアのソロはソニーから出ていましたし、なんだかんだで1994年から今年で27年、ピンク・フロイドに関わっています。まあ、とにかくいろいろありましたが、リリース時はプレッシャーとストレス、理不尽なことばかりで毎回地獄絵図。基本何にもしてくれないんですが、取材が決まったと喜んでも、ぶっちぎられるのは当たり前。1995年の『PULSE』ではピカピカ赤く光る単3電池入りのパッケージに悩まされ、2002年のロジャー・ウォーターズの取材では激怒され、2014年にデヴィッド・ギルモアに会った時は、しつこく質問しすぎて「Enough!」と怒られ(赤鬼の如くの形相にビビりました・・・)。

ロジャーとギルモア2人に面と向かって怒られた人って世界中でもそんなにいないんじゃないですかね(苦笑)。オリジナル・アルバムの紙ジャケを企画したものの、テストプレスを何度も送るも、ピンク・フロイドの音を司るジェームス・ガスリーさんからNGの嵐。ピンク・フロイドのCDやLPは彼の耳が許す、決まった工場でしかプレスできないんです。日本盤をリリースするためには、日本の工場でプレスするために「実際の」CDのテストプレスを作って許諾を得ないといけない・・・ジェームスさんの関わった12タイトル分。作っては送り、作っては送り、ようやく全タイトルOKになってリリース可能になったのは一年越し。並行して日本で作る帯やライナーなどすべて英訳して送り、クレジットを直し、チェックに次ぐチェックでそこからまた途方もない時間がかかってようやくリリースに辿り着きました・・・。今回の記念盤の『原子心母』CDはまさにこのやりとりで出来上がった「日本プレス盤」です。

そう、そんなこんながわかっていながら、今回これまでで最もハードルの高い壁に挑戦してしまったんです。


■日本初の野外ロックフェス「箱根アフロディーテ」で初来日!

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今からちょうど50年前の1971年8月6日と7日、2日間に渡って箱根芦ノ湖畔で開催された海外アーティストを招聘した日本初の野外ロックフェス「箱根アフロディーテ」。まさに今のフジロックやサマソニの原点と呼べるもの。このフェスのヘッドライナーとして招聘されたのがピンク・フロイドで、これが初来日公演でした。

アルバムでいくと『原子心母』が前年1970年10月に英国で発売(日本はちょっと遅れて1971年の1月発売)。プロレスラーのブッチャーのテーマ曲になった「吹けよ風、呼べよ嵐」や名曲「エコーズ」の入った『おせっかい』は発売前(1971年11月発売)という時期。2006年に石坂敬一さん(『狂気』までの東芝EMIピンク・フロイド担当者)にインタビューをしたことがありまして、アルバム『原子心母』の初回出荷枚数は800枚、それが最終的には32万枚まで行ったとおっしゃってました。そんな状況の中、ピンク・フロイドの初来日公演「箱根アフロディーテ」が決定したわけです。

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「箱根アフロディーテ」のピンク・フロイドの初来日公演は、演奏中に芦ノ湖から上がってきた「霧」が、山から下りてくる「霧」とともに、ステージでぶつかり、あたり一面霧で覆われ、幻想的な雰囲気を醸し出す中、突如強風が吹き、霧を吹き飛ばし、ステージ上の4人が現れていく・・そんな偶然の大自然の演出と神秘的なサウンドが融合したライヴ・パフォーマンスだったと、伝説のコンサートとして語り継がれています。その時のオープニング・ナンバーがアルバム・タイトル・トラックの「原子心母(Atom Heart Mother)」で、その時の映像が今回の物語の主役です。

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■「箱根アフロディーテ」商品化:物語のはじまり

物語は2016年から始まります。実は『The Early Years』のボックス・セットが計画された際、海外からこんなリクエストが来ました。「1971年の箱根の映像を探している。アーカイビストに頼んで様々連絡したが全く見つからない、日本のライヴだから日本で探してくれ」というほとんど無茶ぶりだったわけですが、この映像は僕も知っていました。実はこの映像はマニアの間ではよく知られていたもので、どういういきさつかはわからないのですがテレビ埼玉で80年代初頭にオンエアされ、家庭用ビデオで録画されたダビングのダビングみたいなクォリティの悪いものがブートレッグとして全世界に出回った。可能性のあるTV局やレコード会社、様々調べ上げましたが、全く見つからず、結局『The Early Years』には“テレビ埼玉ヴァージョン”が収録されました。なんで“テレビ埼玉ヴァージョン”かわかるかっていうと、一番最後のクレジットに「テレビ埼玉」のクレジットと「おたよりはこちら」みたいなお知らせが入っちゃっていたんですね。PINK FLOYD公式YOUTUBEチャンネルで今でも見ることできますので、もしよかったらチェックしてみてください。

こちらがいわゆる“テレビ埼玉ヴァージョン”。実は音も違うんです。

この映像は『The Early Years』のボックスに収録されたものも含めてクォリティの低いものしか存在せず、そのマスターの行方やこの映像が撮影されたいきさつも含めて長年の間《謎》に包まれていました。その“聖杯”探しはピンク・フロイド本人たちを含めてさまざまな人々がトライしたものの、全く見つからず、真相もわからず・・・。しかし、奇跡がいきなり訪れます。

「原子心母(Atom Heart Mother)」の当時のオリジナル16㎜フィルムを2018年に発見することができたのです。

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■奇跡の映像は、ファンが撮影したものだった!

時は2014年に遡ります。ピンク・フロイドのラスト・アルバム『永遠(TOWA)』の時、ピンク・フロイドのドラマーのニック・メイスンが日本用の取材をしてくれるということで取材を行なったのですが、その模様が新聞に掲載され、その中で「箱根」の想い出を語っていました。そのインタビューを、今回のフィルムを実際に撮影し保管していた方が偶然見た。それで箱根のフィルムの存在を思い出したのがきっかけです。

2014年ニック・メイスン・インタビュー映像(0:15~あたりから初来日のことを語っています)NYアッパー・イーストのとあるホテルにて。

そして、2018年2月。これまたなんという偶然か、フィルムを撮影した方が私の知っている業界の先輩と同級生で、その方を通じて私にコンタクトがあったんです。このフィルムを撮影した山田文明さんと永谷憲明さんに、お会いしてお話を聞いてみました。その時お持ちいただき見せていただいたのが、今までみたことのないような写真の数々。お話を聞いているうちに、これは間違いなくあの「箱根」の映像だなと確信したのです。

更にお話きいて、びっくりしたのが、ピンク・フロイド側からも、当時のレコード会社からも頼まれたものではなかったということ。つまり、当時ピンク・フロイド・ファンの若者たちが、なぜかクルーと仲良くなって、自主的に撮影して編集したものだってこともわかりました。更に更に驚いたのは、それをメンバーに見せていたという事実。翌年ピンク・フロイドが再来日した時にホテルで上映会をして喜んでもらったと。その時メンバーと共に写っている写真が下の写真。驚愕の事実です。

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16mmフィルムの入ったフィルム缶を手渡され、そのフィルムの内容を最初に見た時は本当にびっくりしました。その時の感動はいまだに忘れられません。夕刻のまだ明るいうちから夜へと移り行く空の色と、はっきりくっきりと見える「木材」で組まれたステージ上部の「アフロディーテ」の文字、ピンク・フロイドのライヴ映像だけでなく、羽田空港へ降り立つ彼等やホテルでの記者会見、50年前の日本の人々の姿や、日本の風景etc… 今まで見てきたものとは段違いのクォリティ。歴史の1ページが鮮やかに美しく甦る、1971年のピンク・フロイドの来日ドキュメントです。

■商品化にむけての長い道のり

このオリジナル・フィルムが現存していたということは、ピンク・フロイドにとっての歴史的な発見であると同時に、日本にとっても、世界に誇る音楽遺産となることは間違いない。まだ商品化できるかどうかもわからない中ではありましたが、とにかく早くこれを保存、デジタル化すべきだと判断し、その後16mmフィルムからひとコマずつデジタル化して、 さらにノイズやゴミなども丁寧に取り除く作業も行い長い時間をかけてレストア(修復)しました。修復作業も大変だったのですが、何はともあれ根本的にピンク・フロイド側がこの商品化をOKしてくれるかどうかというのが最大の壁でした。もともと4人のマネージャーの合議制ですべて決まっていくので、ふつう日本企画なんて許されるわけがない。でも、これはやるしかない、トライしてみるしかないと・・・。とにかくある程度修復した映像をピンク・フロイド側へ送ってみました。

鮮やかに蘇る箱根アフロディーテ(現存していた映像と新発見映像との比較映像)

手強いピンク・フロイド側との交渉には山あり谷あり。一歩進んで二歩下がる・・・。映像のクォリティに関しては最終的に彼らも納得してくれたものの、最大の問題は「音」。最初フィルムに入っていたライヴ音源で作っていたんですが、それはクォリティ的にNGだと。その後「これぞ」という音も送ったのですが、それもNG・・・ありとあらゆる音源を送ったのですが、途中で「ピンク・フロイド・クォリティじゃないから別の(他国の)音源に差し替える」って話がきて・・・頼むからそれだけはやめてくれと。今回は日本人の心に響くものを作りたいから箱根の音源を入れないとダメってお願い、説得したんですが、最終的に音源はギルモア様まで話がいってるということになり・・・ってところで連絡が途絶えて「こりゃもうだめかな」とも思ったんですが、しばらく経ってから、「これだったらいいよ」っていうものが送られてきて、それを日本の音源分離技術などを使って磨きに磨き上げ、発見から3年以上の月日を経て、初来日から50周年となる2021年、遂に『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』として商品化にGOサインがでました!

そこからも、フォトブックの写真や(4人均等にしないといけないか)ブックレットのライナーを英訳して送ったり(結局日本と関係のない問題が起こって収録できなくなったり)、アートワークのクレジットの差し替えたりとか、もうぎりぎりまで様々な手直しがあり、このままで本当に出せるのか?と心折れそうになることもたびたび。また映像も何回も見たはずなのに、端の方に一瞬ピョンとヒゲのようなものが飛び出しているのを見つけてしまったり・・・そういった細かい細かい修正を本当にマスター納品のぎりぎりまでやっていました。

もう一つの新発見はBlu-rayにボーナストラックとして収録した「スコット&ワッツ」という映像です。3分程度の短いものなんですが、これまたびっくり映像でした。これは元々、撮影された方がクルー(ブライアン・スコットとピーター・ワッツ。ちなみにピーターはあの女優のナオミ・ワッツさんのお父さん)と仲良くなったので、そのクルーにプレゼントするために作られた映像で、ホテルでトラックに機材を積んで箱根へ移動する模様やステージ設営の模様などが史上初めて映像で見ることができるものです。前日大雨で機材車が泥濘(ぬかるみ)にはまり、人力やブルドーザーで引っ張った・・・って話は聞いたことあったんですが、ちらっとではありますが、それを「動く」映像で見ることができたのには本当にびっくりしました。最後の方は大阪公演の写真も入っています。

箱根アフロディーテB-roll映像ダイジェスト「スコット&ワッツ」※こちらはプロモーション映像のため音声は収録されていません

■アフロディーテ、もう一つのテーマ

今回のもう一つのテーマは「箱根アフロディーテ」について再検証したいということ。いろいろな関係者や目撃された方のお話を聞くにつれ、日本初の野外ロックフェスが、マニュアルも前例も何もない中、50年前の日本人が様々な困難を乗り越えてこのイベントを作り上げていく物語がとても面白いしグッときたので、それをまとめて何らかの形で残したいと思ったんです。当時の関係者、目撃者の証言を収録して「箱根アフロディーテ」という日本人が初めて経験した本格的ロックフェスを改めて検証し、知って欲しいと思って作ったのがデジタル・ブックレット「追憶の箱根アフロディーテ1971」。お亡くなりになった方もいらっしゃるんですが、ニッポン放送の当時の現場の方々のお話も聞くことができ、先ほど話した幻のフィルム発見の経緯などとともに、この日本初のプロジェクトを成立させるまでの秘話満載のNHKの「アナザー・ストーリー」や「プロジェクトX」のようなドキュメンタリーになっていると思います。

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■奇跡の集大成:『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』

今回のピンク・フロイドのフィルムは長年にわたって様々な方々が何度も探していたのに見つからなかったのものが、それを私の知り合いの知り合いの方が大事に持っていた・・・とんでもない確率というか、奇跡的ですよね。元々、ピンク・フロイド・ファンの若者たちがクルーと仲良くなって、ある意味勝手に撮影していてくれた奇跡。日本にこのフィルムが劣化することなく残っていたことも奇跡。撮影した方が2014年の永遠のニック・メイスンの箱根に関するインタビューを偶然見たことも奇跡。そして、その方が私の知ってる業界の先輩と同級生だったという奇跡。商品化を前提に撮影されたものではないものが、こうして50年後に商品化できた奇跡。そして長い時間はかかっちゃいましたがピンク・フロイドがこの初の日本独自企画の発売を許諾してくれたということが最大の奇跡。そんな奇跡の集大成が今回の『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』なんです。

発売を発表したあとも、当時のデザイナーさんに行きついたり、当時のオリジナル・ポスターが発見されたり、また更に新たな写真も発見されたりと。何かこのフィルムに長年込められた想いというか、何かが乗り移ってるような、目に見えぬ力に突き動かされていくような不思議な体験をした気がします。偶然が重なりあって奇跡が積み重なる、あまりにもいろんなことが起こるので、このあと「私大丈夫かな?」なんて思っちゃうほど。

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「原子心母」1曲、約16分ほどの映像ですが、その鮮やかに蘇る50年前の日本の美しい映像はピンク・フロイドをそこまで知らない方でも感動していただけると思います。残念ながら箱根アフロディーテを撮影したフィルムはこれ以上残っていないそうですので、これが現段階としては現存する唯一の映像となります。『原子心母』の日本プレスCD、箱根アフロディーテ「原子心母」とBロール「スコット&ワッツ」の映像を収録したBlu-ray、未発表写真満載のフォトブック、特典として当時のパンフレット、チラシ、チケット、ポスターのレプリカ復刻、それらを「牛ジャケ」を7インチ・サイズにした紙ジャケットに収録しています。

日本が世界に誇る音楽遺産ともいえる記録映像、当時の空気感を詰め込んだパッケージ、そして「箱根アフロディーテ」の物語を収録したデジタル・ブックレットとともに、半世紀前に想いを馳せつつ、この執念の企画『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』が日本のみでリリースされた喜びを多くの方々と分かち合えたら嬉しいなと。

ピンク・フロイド『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』豪華スペシャルパッケージを【開封の儀映像】でご覧ください。


■最後に…石坂さんの貴重なインタビュー(抜粋掲載)

最後に私が2006年にDVD『驚異』のブックレットにピンク・フロイド歴代ディレクターの証言を収録するために行なった石坂敬一さんのインタビューより、『原子心母』と「箱根アフロディーテ」に関する部分を一部抜粋し掲載させていただければと思います。

このインタビュー時、石坂さんに『対(TSUI)』と『驚異』の邦題を褒めていただき、ピンク・フロイド担当者としてのお墨付きをもらえたようで感無量だったことを思い出します。(ちなみに“テレビ埼玉ヴァージョン”では気づかなかったのですが、今回綺麗になった映像の中に石坂さんの姿が映っているのを発見しました。羽田空港に到着し、車に乗り込むあたりです。)石坂さんも、フィルムを撮影した一人永谷さんもお亡くなりになってしまいました。もう少し早く商品化できれば、ご覧いただき、喜んでいただけたのにと、残念でなりません。(全文は2006年発売のDVD『驚異』のブックレットに収録しています)

【石坂敬一さんインタビュー】(2006年8月3日)

石坂さんとピンク・フロイドとの初めての出会いは1967年の終わり頃。ピンク・フロイドのデビュー盤が『サイケデリックの新鋭・ピンク・フロイド』というタイトルで出ていたものを、後に『夜明けの口笛吹き』という原題に近いもので出し直したそう。初めて担当したのは『神秘』。ピンク・フロイド以外でも数々の名邦題を付けた石坂さんが邦題を付けるようになったきっかけは「津々井」というレストランで「日本の洋食」と書いてあったことにヒントを受け、「私がやってるのは“日本の洋楽”だと。ニューヨークの洋楽とは違う、ロンドンとも違う。やはり“日本の洋楽”を確立しなきゃ」という意味も含めて邦題をつけるようになったそうで、大変感銘を受けました。

――邦題で一番印象的なのは『原子心母』なのですが、これはやはり原題のイメージだったのでしょうか

「ひらめきですね。あと『Atom Heart Mother』をカタカナで書くと何の雰囲気もインスピレーションもない。それからこの雄大なるヒプノシスのアートワークをじっと見ながら、あの音楽を聴いていたら、グランド・スケールだなと。だから大きなタイトル、雄大なイメージ。そこで直訳してみたら「原子」「心」「母」。これで行こうと」

――邦題を完成させるまでにどれくらいかかりましたか

「そうですね、1日はかかったかな」

――最初にこの牛のジャケットを見たときの印象はいかがでしたか

「タイトルもなにも書いてなくて、牛だけがいるジャケット。やはり変なものだなあと…。内側のジャケット見るとイングランドという感じもするけど、スケールの大きい“幽玄の世界”にも通じるだろうと。 “妖術”のような要素もあるし、“宇宙”も感じるし、あとやはり“神秘”…」

――当時はどのような売り方をしたのでしょう

「普通の当時の定食メニュー型のプロモーションもやりましたが、宇野あきらさん、横尾忠則さん、矢吹伸彦さん、河村要助さん、沢渡朔さんとか、映像関係、画家、それから芸術新潮やジャズ批評にも持っていき聴いてもらいました。今でいえばクロス・オーバーということでしょう。あとジャケットだけ特別に作ってもらって、有名な当時でいえばスナック・バー、あるいはカフェ・バーのはしりのような店にいっぱい貼ってきました」

――日本での評価はどうだったのでしょうか

「『原子心母』のイニシャルは800枚でしたが、その後売れて当時で32万枚くらいだったでしょうか。『原子心母』はイギリスでは1位になりました。でもアメリカは50位くらいで全然アメリカとしては売れなかった。だからその間に日本で売りたいと。対アメリカ一辺倒の洋楽に、一矢報いたい気持ちはありました。ピンク・フロイドはアメリカではまだ偉大ではなかったので。」

-―ピンク・フロイドのライヴを最初に観たのはいつ頃でしょうか

「1971年の箱根のアフロディーテです。どんよりしてきて、夕暮れでライティングがすごくきれいになった頃に、雨雲らしきすごい雲が立ち込めてきて、まさに“幽玄の世界”。ピンク・フロイドの奏でるサウンドにぴったりでした」

――来日時のピンク・フロイドのメンバーとのエピソードなどがありましたら

「あの箱根アフロディーテのとき私はMAZDAのカペラという車に乗っていったのですが、なぜかニック・メイスンとデヴィッド・ギルモアをカペラに乗っけて帰ることになったんです。2人を乗っけて原宿の骨董屋に連れていきましたね」

――それは凄い話ですね。

「ニック・メイスンが“ドラ”を買いたいから、“ドラ”を見に行きたいという話になり。まだその頃はイギリスではビッグでしたが、アメリカで認められてるほどではなかったから。だからなんでも言うこときいてくれた」

――本当ですか(笑)

「それからビブロスという当時の有名なクラブが赤坂にあって連れて行きました。実はそこはメンバー・シップ制だったので、その頃噂だと30万円ないと入れないと…。当時の30万円はとても私には払えないからピンク・フロイドのテスト盤を5枚くらい持っていって、受付のところで“これ、凄いから”と。」

――メンバーは全員いたのでしょうか

「ロジャー・ウォーターズはいませんでしたが、リック・ライト、ニック・メイスン、デヴィット・ギルモアはいました。私がビール持っていってあげたりしましたよ」

――ライヴの楽しみ方がアメリカと日本ではかなり違うと思うのですが。ピンク・フロイドの音楽の聴き方自体も違うのでしょうか

「このめくるめく万華鏡の世界、インスピレーションが湧き出てくる世界、あるいは歴史に鑑みてどのへんの時代か、古代かそれとも荒涼たる中世か…いろんなことを想像できますよね。その人の特性、個性、あるいは経験をものすごく喚起する音。だから真剣に聴くのは当たり前。だから日本人の聴き方の方が私はいいと思います。ツェッペリンと同じに聴いても変。ツェッペリンもそういう幻影を走馬灯のように回るとこあるでしょう。だからグランド・ファンクを聴くのとピンク・フロイド聴くのとほぼ同じなのがアメリカ人。だから私はそれは絶対によくないと思う。」

―― 一番思いれのあるピンク・フロイドのアルバムと または楽曲を教えていただきたいのですが

「一番好きなアルバムは『原子心母』。音楽の素晴らしさと自分の仕事における満足感を感じさせてくれたアルバム。その中の「サマー68」という歌はアンニュイを感じます。ピンク・フロイドのある一面」

――石坂さんにとってピンク・フロイドとはどういった存在なのでしょうか

「エマーソン・レイク&パーマーとかジェネシスとか、素晴らしいものもあとからでてきていますが、先鞭はピンク・フロイドです。『夜明けの口笛吹き』はそれでもロック・バンドらしいけど、『ウマグマ』になると、もうあんなことやって売る気あるのか?というくらいアバンギャルド(前衛)ですよ。レノンもそれに近いことをやった、ジョージ・ハリスンも『不思議の壁』で。だけどピンク・フロイドのほうが早かった。

ピンク・フロイドは自分の視野をぐっと広げてくれた、永遠に忘れることのできない「音楽芸術」。芸術というと堅苦しいという意見もあるけど、これは間違いなくサムシング・ディファレント。サムシング・アドバンス。サムシング・プログレッシブでした。」
(2006年8月3日 ユニバーサル・ミュージックにて)

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■エピローグ

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50年前箱根アフロディーテが行われた8月6日は金曜日、7日は土曜日。その50年後の同日は偶然にも曜日も一緒。これも何か出来すぎている感じもしますけど、ちょうど50年目となった8月6日(金)と7日(土)、箱根の彫刻の森美術館で、箱根アフロディーテ50周年を記念するイベント「追憶のピンク・フロイド」が開催されました。この日も箱根は霧に包まれ、50年前の箱根もこんな感じだったのかな?と思うほど。そして、50年後の8月6日、ピンク・フロイドがステージ立った同時刻頃、「箱根アフロディーテ跡地」に行ってみました。今は成蹊学園箱根寮になっていますが(現在はクローズしていて中には入れません)、50年前、全景を撮影した場所を探し、同じ角度で写真を撮影。撮影場所は木が生い茂って跡地は見えにくくなってはいましたが、大学の寮の建物が新たにできた以外は、50年前と変わらぬ、そのままの姿に見えました。まるで50年間時が止まっているかのように。

本文を追加

〇箱根アフロディーテ写真:Noriaki Nagaya


ピンク・フロイド『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』

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ピンク・フロイド『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』
Pink Floyd / Atom Heart Mother (Hakone Aphrodite 50 Anniversary Edition)ー当時の未発表写真を多数発見!日本独自スペシャル・フォト・ブックレット他、5大特典封入
①「未発表写真満載!全60Pスペシャル・フォト・ブック」
②「箱根アフロディーテ・パンフレット」復刻
③「会場案内図チラシ」復刻 
④「大阪公演ポスター」復刻
⑤「箱根アフロディーテ・チケット」復刻
ご購入はこちら:https://SonyMusicJapan.lnk.to/PF_gjb


▼ピンク・フロイド『原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)』特設サイト

▼ピンク・フロイド日本公式オフィシャルサイト





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