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死と愛する者との別れを混同してはならない

人はいつか死ぬ。

それは多くの人が知っている事実だが、大切な人を失うということが、どれほど悲しいのか、私は知らなかった。確実にこの世にあったはずの命が、本当はなかったんじゃないかと不安になるような気持ちを、私は知らなかった。

2020年12月28日午前9時12分、最愛の父が永眠した。


私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る


こんな歌があったことを、ふと数日前に思い出した。私は、最愛の父の墓の前で、泣かなかった。火葬前最後の別れの瞬間も、火葬中も、家に帰ってからも、けして泣くことはなかった。そこに父がいないとわかっていたから。
もし「魂」たるものがあるのであれば、父は今頃あの世に飛んでいき、あっという間に馴染んで、知り合ったばかりの人と、生前飲みたくても飲めなかった日本酒でも見つけて、飲んでいそうなものである。父は、そういう人だった。

そこにあるのは父の肉体であり、亡骸であり、それは父の入れ物だった。父という大きな魂がすっぽり収まる、大きな入れ物だった。その入れ物を、崩して、また大きな入れ物に入れてフタをする。崩した入れ物の欠片はどれも綺麗だった。父はよく喋る人だったが、最も綺麗に残った喉仏では、仏様が合掌していた。父の喉には仏様がいたのだろう。


死と愛する者との別れを混同してはならない。


ある本で知った言葉。父は「仏さんになるのが夢だ」と言っていて、私は幼い頃よりずっとその言葉の意味がわからなかったが、今父はきっと仏さんになっているのだと思った。私は父と永遠の別れをした。それは物凄く悲しいことではあるが、父は辛い闘病生活にも耐え忍び、その波瀾万丈な生涯を全うし、仏様になった。それが父の人生に定められたたった一度の尊くあるべき「死」で、これらは全く別の物である。
だから私は、これらを区別して、私に与えられた悲しみや苦しみを全うする。それがどんなに激しいものであっても、別れが悲しいなんて当たり前のことなのだから。

だけど父は、秋には光になって、私にふりそそぐだろう。
冬はダイヤのように、きらめく雪になるだろう。
朝は鳥になって、私を目覚めさせるだろう。
夜は星になって、私を見守るのだろう。

残された人が忘れない限り、故人は生き続けるそう。季節の節々に愛する人がいると信じて生きていくことができれば、少しは心強いのではないか、と思う。

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