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こんにちは、Nanakoです。

今日も暑いですが、
毎日朝起きると、晴天なので、
本当に気持ちが良くて幸せです^^
感謝だー!!!

さて、今日は
かなり真面目に
「平和」について書こうと思っています。

かなり本格的に想いを綴りました。
ディープな話題ですので、、
気が向く方はぜひ共にして頂ければと思います。


平和とは

手元の辞書には、

【平和】
心配や揉めごとがなく、和やかな状態。
戦争や災害などがなく、不安を感じないで生活できる状態

とあります。

戦争の有無もそうですが、
心が和やかで、心配のない状態って
本当に大事だよなーと思います。

一方、聖書では、

平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう
マタイによる福音書 5:9

と書いてあります。


平和は「つくり出す」ものなんですね。
決して、簡単には、与えられない。
努力しなければ、奪われる、壊れる
そういうものなのだな、と
改めて、聖句をじっくりと読んでいて、
考えさせられました。


原爆の日を考える


さて、
昨日は、8月6日 広島原爆の日でしたね。
皆さんは、広島はいかれたことはありますか?
私は、高校生の時に平和学習として初めて、
訪問するように
なりました。

当時一番最初に、
路面電車を降りて、原爆ドームに向かった時、
急に目の前に、原爆ドームが現れて、
言葉を失ったのを今でも覚えています。

原爆ドーム

写真では何度も見てきていたけれど、
やはり、実物を見るのとでは、
感じるものが違い、ものすごく衝撃を受けました。

今まで、
話には聞き、勉強してはいたけれど、
当時の姿をそのまま残している、
当時の時間を肌で感じさせるものを見るのとは、
全く別物でした。

また、多感な中高生の時期に、
この場所に行けたことは本当に自分にとっても
大きかったのではないかと思います。

一瞬にして、人の時間を奪い、
生活を奪い、命を奪い、
当時の時を止めてしまった
大きな力を持つ原子爆弾、そして武力

この建物を見ながら、

はかなさ
虚しさ
悲しさ
憤り
無常さ
人間の無知、愚かさ
失望感、喪失感
愛する人を切に探し回った人たちの想い
当時生活をしていた人たちの息遣い

などなど、当時、本当に様々なものを
一気に受けたのだと思います。


当時は、
ここまで言葉にすることはできませんでしたが
1つのものを見ることを通して、
多くの人の想い・衝撃をドーンと心に受けました。


また、
広島では、平和記念館に、
当時の貴重な資料を展示してあります。


原爆当時、
階段に座っていた人によって、
熱線に焼かれずに残った階段の人の影の跡
熱線により一瞬にして沸騰し、泡が立ってしまった瓦

など、本当に当時の威力を物語るものが様々に置いてあります。

当時何が起こっていたのか、
現在を生きる私たちが学ぶのは
難しいところは多い
ですが、
しかし、
残されたものから、
想像力を少し働かせるだけでも、
たくさんのことを感じ、
考えることができると思います。


平和を成すことは不可能なのか


さて、高校生の時、
この平和学習では、
様々な場所にフィールドワークに行ったりもしながら、
最後には、全体会として、
同学年の仲間と平和について、議論を交わしました。

どのようにしたら、平和をつくり出すことができるのか?

当時、高校生ながらに、
考えたことを様々に議論した覚えがあります。


その中で、
今も心に残っている、友達の一言があります。

人類が生まれてから、
6千年、8千年、という歴史の中で、
今まで、戦争がなかった時代があっただろうか?
今まで、これだけ多くの人が平和を願い、
平和を作ろうと努力したのに、
平和がなされてこなかったことを見ると、
私は、人類が平和を成すことは不可能だと思う

彼女は、頭はピカイチによく、
本当に優秀な友達でした。
誰もが彼女には敵わない、
と一目置くような、そのような人でした。

そんな彼女の発言に、

いや、それは違う。

と、私は、強く心の中で思ったことを今でも覚えています。


どうして、平和を成すことを
最初から諦めていいだろうか?
今まで成したことがないことでも、
心で願い、努力してこそ、
成し遂げることができるのではないだろうか?

最初から、できないと思った時、
その時点でもう成せなくなってしまう。

平和を願う一人、一人が貴重なのであって、
平和を成すことを諦めた時、
その時、もう平和は成せなくなる。

そう、強く感じました。

そして、いくら頭のいい人であっても、
このように考えてしまうのか!!?
と衝撃を覚えました。

どこから、この考え方の違いは出てくるのだろうと。

どうしたら平和をつくりだすことができるのか

平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう
マタイによる福音書 5:9

最初にも引用しましたが、
聖書では、平和をつくり出す人はさいわいだ
神の子と呼ばれる
と書いてあります。

本当に、平和をつくろうと努力する人、
平和を願う人、
平和のために行う人そういう人は、
本当にさいわいな人なのだ
と思います。

みんながみんな、
そのような考えを持てたらいいけれど、
必ずしもそうではない。

では、どのようにしたら
平和はなせるのか?

平和な世界は、天国のような世界だ
ということができると思うのですが、

イエス様は、聖書で

この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、
「悔い改めよ、天国は近づいた」。
マタイによる福音書  4:17

と、おっしゃいました。
ここでは、直接はおっしゃっていませんが、
他のところで、

イエス様自身について、

「私が道であり、真理であり、命だ。」
ヨハネによる福音書 14:6

とおっしゃり、
天国に通じる門だとおっしゃいました。

これは死んでから行く天国だけではなく
イエス様の御言葉に従って、
実践して生きる人たちは、
地上で天国の生を生きています。


また、
イエス様は、
最後、ゲツセマネで、命を狙われたとしても、
弟子が剣を使うことをよしとせず、

敵を愛しなさい

といつも、ひたすらに
愛の精神で、一人一人、人類を愛してくださり、
神様の大きな愛を教えてくださいました。


教会の牧師先生もまた、
ベトナム戦争に兵士として従軍しながら、

敵に銃を向けられた状態でも、
「愛しなさい」
という、神様の声を聞いて、
銃を捨てて敵の兵士を抱きしめ
お互いに生きる
ということまで実践しました。

また、
時には、あえて、
銃を空中に打ちながら、
いつも人を生かしながら
人を生かす平和な戦争を行ったんだ。

と、当時のことを様々に教えてくださっています。



平和な世界
天国のような世界を
地上で成すためには、

たしかに
人間の考えでは、限界があり、不可能であり、

平和の根本でいらっしゃる愛の神様のことを
学びながら、愛しながら、
キリストの実践に学びながら
自分を磨き、
平和の精神に自分をつくり実践していってこそ、
可能なのだと思います。



今回、書きながら、

教育者として、
未来の大人を育てる立場として、
平和をつくり出す人、
平和をつくり出す子供たちを
育てていきたいと強く考える時間
になりました。


もう戦後75年を迎える今年。
当時の様子を知る人も高齢化し、
数も少なくなってくる中、
貴重な体験を引き継いで、
当時の記憶を劣化させてはいけないなと感じます。

また、戦争をなくすというだけではなく、
日々の生活の中で
天を愛しながら、
常に隣人を愛しながら、
平和を願い、平和をつくり出す人としての生を
生きていきたいと思います。


今日は、平和というしっかりとしたテーマで
記事を書いてしまいました。

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

ぜひ、皆さんも、
少し平和について想いをはせ、
考え、祈る時間にしていただけると幸いです。



ではでは

グッバーイ👋







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