僕は、病院に行けない
僕は、病院に行けない。
僕は、障害者である。
僕の愛する母は、言葉を理解し、相手との意思の疎通をはかることが、できない。
しかし、介護認定は、ゼロ、だ。
僕の母は、善と悪を、判断、出来ない。
僕の家の世帯の世帯主は、母、だ。
医療費などは、母と僕の収入の合計で、算出される。
父が亡くなり、父の遺族年金は、母の名前で我が世帯の収入になっている。
母は、僕の医療費を、鐚一文出さない。
相手の人間との言葉のやりとり、そして、善悪の判断の出来ない人間に、障害者の扶養義務の責任をおわせるのは、間違っていると、僕は、思う。
僕は、まわりの人間たちに、世帯分離を強く勧められる。
しかし、父が亡ったいま、愛する母を、僕が家を出て、母を実家に家に独りぼっちさせるようなことは、僕は、人間として、真っ当では無いと、考えている。
僕は、そんな人間には、なりたくない。
第一、僕は、僕を産んだ自分の年老いた母が、大好きだ。
嫌いになりたくても、なれない。
それに、母を独りぼっちにしたら、母が、可哀想だ。
善悪のわからない母は、相手と通じ合えない言葉を、自分の頭の中で、良いこととして、ねつ造する。
だから、僕の母は、母自身は、なにも困っていない。
だから、母自身は、病院に行く必要が、無い。
困っているのは、僕たち家族、周りの人間、そして一番は、それで、孤独になってしまった、母、
自身、
だ。
母が、人一倍寂しがり屋なのは、産んでもらった時から、母の子供をやっている僕が、一番良く、知っている。
僕は、障害者のなかでも、少しは考えられる方の障害者だと、思っている。
しかし、現実、障害者の多くのひとたちは、わりと、考えることが得意で無いひとが、多い。
その人たちは、自分の酷い境遇を自ら自覚出来ない。
このような、酷い境遇にある障害者を救済する、絶対に必要な法律が、いまの現実の日本には、存在し無い。
障害者が困っているのに、彼らの扶養義務者が困ってなかったり、つまり、その義務を遂行する能力と、義務者のこころが、壊れている場合、その障害者は悲惨な状況におかれる。
日本には、その悲惨な障害者を救済する法律が無い。
その障害者の扶養義務者は、その義務者自身は、なにも困っては、い無い。
間違ったことをしている自覚すら、本人には、無いのだ。
これは、障害者と壊れた扶養義務者が変わる案件では無いと、僕は思う。
変わるべきは、絶対に必要な法律の無い、日本の社会のほうだ。
即刻、社会が変わらないと、自分の悲惨の自覚すら無い障害者が、救済されることは、無い。
こういう境遇の障害者は、社会の想像を遥かに超えるぐらい大勢いると、僕は、想像している。
たぶん僕の想像は、大当たりだろう。
困っているひとが、困ってているままでは、いけない。
しかも、大方の彼らは、自分が困ってをいることを、自覚出来ないのだ。
どんな悲惨なことをされても、自分の家族が、みんな、大好き、だからだ。
社会のロジックは、刑事でも民事でも、裁判所に訴えて解決するのが、社会の在り方だろう。それで、解決するものだろうと、言うだろう。
しかし、真っ当なこころを持った人間は、愛する家族を、訴えるという馬鹿なことなど、
絶対に
しない。
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