見出し画像

デフリンピック銅メダリストが登場!逆境を乗り越えた考え方、そして新たな挑戦とは?

こんにちは。
SMBC日興証券note編集部です。

2024年現在、当社には 17名のアスリートが社員として在籍し、
トップアスリートとして競技を行うとともに、講演などを通じて共生社会の実現や障がい者への理解を深める活動を行なっています。

アスリートならではのさまざまな経験談やエピソードから、
私たちの生活やビジネスにもつながるヒントを探るシリーズ企画の第2弾!

〈第1弾はこちら!〉

今回は、デフ陸上・100mハードルのメダリストでありながら、
2025年開催(2025年11月15日〜26日)の東京デフリンピック出場を目指して「棒高跳び」という新たな種目に挑戦する田井さんに話を聞きました。


現役引退を経て、もう一度チャンピオンに

―2013年デフリンピックのブルガリア・ソフィア大会で陸上100メートルハードルで銅メダルを獲得!
以降、3大会連続で出場している田井さんとスポーツとの出会いについて教えてください。

田井:小学校の頃からスポーツはできたほうなのですが、水泳だけは得意じゃなくて。子どもながら、周りに冷やかされるのが悔しかったので、最初は水泳を習っていました。その一方で、小学3年生の時に高学年対象のリレーで入賞するくらい、足は速かったんです。

―すでに小学生で頭角を現していたんですね。
ハードルを始めたきっかけはあったんですか?

田井:走ることが好きで陸上を始めたのですが、まだ自分ではハードル選手としての可能性に気づいていませんでした。
ある時、ふと参加したハードルの記録会で飛び抜けて良いタイムが出て、それを見ていた先生に「素質があるよ」と勧めてもらったのがきっかけでした。

―そこから本格的にハードルに打ち込んできたんですね。

田井:そうですね。中学校ですごく身長が伸びて、それと比例するように記録も伸びました。中学2年生の夏に本格的にハードルを始めて、全国大会に出場できるようになったのも、ちょうどその時期です。

―その後、中学3年時に100メートルハードルで全国1位に!
成長の秘訣は、何かあったんですか?

田井やはり、恩師との出会いは大きかったですね。
最初は感覚に頼っていたのですが、基礎的な技術や自分では気づかない欠点など、いろんなことを理論的に教えていただきました。
高校ではインターハイに出場し、大学に進学後も競技を続けていたのですが、23歳で右耳に突発性難聴を発症したんです。

―日本トップレベルのハードル選手として、これから世界を目指していく時期だったそうですね。

田井:ちょうどアジア大会の代表選考会直前のタイミングでした。ただ、そこでハードルを止めるという選択肢はなくて。そこから約7年間、2009年11月に引退するまで、全力で現役生活を全うしました。
引退から数日後、30歳で今度は左耳に急性進行性難聴を発症。
デフリンピックを知ったのはその後でした。

―辛い経験を乗り越えて、ほとんど準備期間もないまま日本記録を樹立。
驚くべき早さでもう一度トップ選手として再起されたきっかけはあったんですか?

田井:引退後、失意の中で「デフリンピック」という新しい目標ができたことで奮起することができたんです。
2010年5月に競技を再開して、8月の日本聴覚障害者陸上競技選手権で当時の100メートルハードルの日本ろう記録(15秒69)を出せたのは大きな自信になりました。
これまでの積み重ねが、もう一度カタチになってうれしかったですね。

自分を信じて2つ目のメダルを目指す

―数々の実績を残されていますが、田井さんは大きな舞台でもあまり緊張しないタイプですか?

田井:いえいえ!まったく逆で、中学生の頃も、大会当日は朝ごはんが喉を通らないくらいメンタルは弱いほうでした。
そんな時に恩師から教わったのが、自分がやってきたことを信じてスタートラインに立つこと。ただ目の前に集中して、無心で走ることの大切さを学びました。

―そうなんですね、とても意外でした!
恩師の言葉で、ご自身を鼓舞してきたんですね。

田井:そうですね。これまでを振り返ってみると、大きな壁にぶつかった時は、まず目の前に高い目標を掲げて、それを一歩ずつでもコツコツと達成することにひたすら集中してきたような気がします。
引退後にデフリンピックと出会って出場を目指した時も、まさにそうでしたね。

―2013年のデフリンピックで銅メダルという快挙を達成した時はどうでしたか?

田井:2011年に長女が生まれて「この子に金メダルを掛けてあげたい」という想いが一番のモチベーションでした。
プロセスはいつもと同じように、その大きな目標に向かって、目の前のやるべきことに集中する。
前年の世界大会では1位の選手と100分の数秒差だったので、メダル獲得は明確にイメージできていました。

―その結果、世界の一番大きな舞台での銅メダル獲得が実現しました。

田井:大きな力をくれた娘は当時まだ2歳。当然、本人は覚えていないのですが、良い思い出です(笑)。

そして、今ではまた新たな目標ができました。
最後に出場した2022年デフリンピックで現役は一区切りだと考えていたのですが、次は「棒高跳び」での出場を目指しています。

―種目転向という新たなチャレンジを決めた理由を教えてください。

田井:2025年に東京開催が決まったので、自国開催の大会で表彰台に上がってみたいんです。ハードルは年齢と走力の影響が大きいですが、棒高跳びは技術次第で若い世代とも勝負できる種目。
いろんな葛藤もありましたが、より高みに立つ自分をイメージできたのが棒高跳びでした。

逆境から新しい人生を切り開いた考え方

―引退からの再起、そしてまた新たな目標に挑む田井さんですが、最大の逆境はどこにありましたか?

田井:引退から数日後に左耳が難聴になった時が一番落ち込んだ時期で、今がどん底だと思ったこともありました。ただ、その経験があったからこそデフリンピックを目指すきっかけにもなりました。
もちろん簡単なことではありませんでしたが、今の自分を認めてあげたことで、新しい人生を切り開けた気がします。

―恩師の言葉通り、「自分を信じること」と「目の前に集中すること」なんですね。

田井:まさにそうですね。今でも落ち込むことはありますが、過ぎたことはもう戻りません。怪我やハプニングなど、思い通りにいかないことも多いですが、その時の自分にできることをいかに全力でやるか。それが重要なんだと思います。

―そういった考え方は、やはり恩師の影響が大きいのでしょうか?

田井:恩師はもちろん、夫の影響も大きいと思います。私はどちらかというと少しネガティブ思考なのですが、夫はとってもサバサバしていて(笑)。「過ぎたことは気にしないで、次にどうするかを考えようよ」みたいに普段から声を掛けてくれるので、気が楽になって気持ちの切り替えも早くなりましたね。

年齢に関係なく、まだ見ぬ高みへ

―新しい目標達成のために、いま心掛けていることはありますか?

田井:今日お話しした通り、やるべきことや考え方はこれまでと同じ。
自国開催のデフリンピック出場はもちろん、目指すからにはその先にあるメダルを見据えています。
とても大きな目標ですが、まずは目の前の小さなステップの積み重ねからですね。

―有言実行で挑戦と成長を繰り返す田井さんにヒントをもらった方も多いと思います。

田井:そうであったら嬉しいです!成長の秘訣があるとすれば、小さな目標をコツコツと達成して少しずつステップアップすることでしょうか。
その先に、大きな目標の達成があるイメージですね。

―最後に、2025年のデフリンピック東京大会に向けての意気込みを聞かせてください。

田井:ハードルから棒高跳びに種目転向して最初の大舞台。
技術力が結果を大きく左右する棒高跳びでは、若い選手と並んで私と同年代の選手も活躍しているんです。
2025年の私は、46歳。これからの自分がどこまで高みにいけるか、これからも挑戦し続けていきます。

(第3弾に続く)

次回は、第1弾に登場した鈴木さんと、今回登場した田井さんのアスリート対談。SMBC日興証券に入社したきっかけや入社後のエピソードなどを掘り下げていきます!

第1弾の鈴木さんの記事はこちら!

第3弾の対談記事はこちら!


この記事が参加している募集