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パラリンピック6大会連続入賞!高いパフォーマンスとモチベーションを維持する秘訣とは?

こんにちは。
SMBC日興証券note編集部です。

当社は、経営理念の一つとして、「多様性を尊重する」を掲げ大切な価値観とする中、2015年度より障がい者アスリートの支援を目的とした採用を開始しました。

2024年現在、17名のアスリートが社員として在籍し、トップアスリートとして競技を行うとともに、講演などを通じて共生社会の実現や障がい者への理解を深める活動を行なっています。

今回は、SMBC日興証券に所属し、活躍している2名の社員アスリートにインタビューを実施。

アスリートならではのさまざまな経験談やエピソードから、私たちの生活やビジネスにもつながるヒントを探るシリーズ企画の第1弾です!


不器用だった少年が日本人初の大舞台へ

―パラリンピック陸上の走り高跳びで6大会連続の入賞!
世界を舞台に20年以上も活躍している鈴木さんですが、子どもの頃からスポーツ少年だったんですか?

鈴木:体を動かすことは好きでしたが、幼少期は心臓が弱い体質だったんです。5歳の時、お医者さんの勧めで健康のために水泳を始めて、小学校に入ってからはバスケットボール・野球・ハンドボールと球技が好きになりました。その中でもハンドボールにのめり込み、中学・高校と6年間続けました。

―スポーツが好きになったのは、何かきっかけがあったんですか?

鈴木:実はもともと吃音症きつおんしょうで、子どもの頃に自分をうまく表現できないことがあって。そこを救ってくれたのがスポーツでした。普段は不器用で上手に話せなくても、良いプレーをすればみんなに注目されて、先生も褒めてくれる。自分の活躍できる場所を見つけた、という感覚でした。

―アスリートとしての原体験があったんですね。

鈴木:そうですね。将来はスポーツ選手になることも、すでに意識し始めていました。高校時代にハンドボールで国体に出て、スポーツ推薦で筑波大学に入学が決まって。そうした最中に、高校の卒業式の直前、交通事故に遭ってしまったんです。

―いろんな葛藤があったかと思うのですが、走り高跳びに挑戦された経緯について教えてください。

鈴木:右脚を失っても競技生活を続けたい。そう考えていた時、義肢装具士の第一人者である臼井さんと出会いました。
ハンドボールの経験を活かせる競技を模索していた僕のために、両親が臼井さんにコンタクトをとってくれたんですね。臼井さんとのリハビリがきっかけとなって、走り高跳びを始めました。

―リハビリとトレーニングを並行して続けることは、相当過酷だったのではないでしょうか。

鈴木:辛いこともありましたが、臼井さんにスポーツ用義肢を作っていただき「走れるようになるから大丈夫」という言葉に支えられました。
まず始めたのは、衰えた筋力を戻すこと、そして義肢に慣れること。
ただ平地を歩くのではなく、車の運転や階段の登り降りなど、私生活のあらゆる場面で義肢の訓練を積み重ねました。

―そこから日本人初の走り高跳び選手としてパラリンピック出場権を得るまで、わずか3ヵ月という期間に驚きました。

鈴木やはり本気でハンドボールに打ち込んだ経験が大きかったですね。
それに、中学3年生の時、背面跳びで山梨県2位になったこともあって、もともと跳躍力にも自信がありました。
また、筑波大学はスポーツ強豪校なので、周りの学生アスリートたちの真剣な姿からもたくさん刺激を受けましたね。

最善を尽くして「今」に集中することが重要

―高いレベルでパフォーマンスを維持するために意識していることはありますか?

鈴木:いくら意識をしても、やはり人間なのでどうしてもムラは出てきてしまう。そこで「いかに良い状態を再現できるか」が重要になるんです。
僕の場合は、自分で録画したトレーニング映像を見ながら、ひたすら検証と実践を繰り返します。

―練習中や大会で「良いパフォーマンスが出せそう」という予感はあるものなんですか?

鈴木:結果が良い時ほど、跳ぶ前の走り出しで「あ、いける!」と感じることが多いですね。
走り高跳びって、実は一番気持ち良いのは跳んでいる時じゃなくて、足で地面をグッと踏み込んだ瞬間。
野球のバッティングで言えば、インパクトの瞬間なんです。

―なるほど。跳ぶ前の一瞬に意識が集中していて、そこですでに勝負が決まっているんですね。

鈴木:そうですね。走るスピード、飛び込む角度、遠心力の使い方。
跳んだ後はもう結果を待つだけなので、その前のプロセス、一連の動作でベストな自分を再現する。そのためのトレーニングをしています。

―2006年には日本人で初めてパラ陸上で2m越えを記録されています。
その大台を超えた日のことは覚えていますか?

鈴木:その日は、朝からずっと雨が降っていたのに、自分の番になったら雨が止んだり、スタートラインに立った瞬間に家族やコーチ、臼井さんの顔が浮かんだりと、いつもはない不思議なことが続きました。
しっかり練習を積み重ねた結果として「2mを跳ばせてもらった」ような感覚で。良い意味で、何も考えずにリラックスできていたんでしょうね。

―鈴木さん流の緊張やプレッシャーに負けないコツがあれば教えてください。

鈴木:僕も緊張はするし、もちろんプレッシャーもありますよ。そういう時は、他の選手の様子や周囲の雑音など、自分ではどうしようもないことは気にしないこと。自分が「今」できることだけに集中する。それが良い結果につながるのだと考えています。

7年間立ちはだかった壁を乗り越えて

―競技生活の中で、壁にぶつかった経験はありましたか?

鈴木2006年のワールドカップで思い切り跳んだ時に膝を負傷してしまって。そこから約7年間、膝の痛みに耐えながらの長く苦しい戦い。最大のスランプでしたね。
負傷した2006年以降も、なんとか国際大会には出場できたものの、トップ争いには食い込めない状況が続きました。北京2008パラリンピックも膝に注射を打って満身創痍に。あの頃は本気で引退も考えました。

―すごく苦しい期間ですね。
どのようにしてモチベーションを保っていたんですか?

鈴木:2009年に子どもが生まれて、家族の存在が大きな支えになりましたね。自分がまた2mを越える瞬間を、この子にも見せてあげたいという気持ちで踏ん張っていました。
あとは、必ず膝の状態が良くなると信じて諦めず行動し続けたこと。

専門外の分野からも幅広く学んだ結果、良い治療法と出会えてようやく回復傾向に向かいました。

―スランプの時でも、「今」できることに集中する。という姿勢だったんですね。

鈴木:そうですね。膝を負傷したということは、間違った動きをしていた結果です。正しい動きの大切さを身を持って実感できたので、苦しかったですが自分の体と改めて向き合えた7年間だと捉えています。その成果として、2015年には7年ぶりに2mを越える記録をつくることができました。

自身のキャリアを活かしてパラスポーツに貢献したい

―現在は選手兼コーチとして活動されているんですね。

鈴木:そうですね。コーチとして若手アスリートの育成に携わっているのですが、来年からは指導者としての活動の幅をさらに広げていきたいと考えています。

―指導するにあたって、意識していることはありますか?

鈴木:何かアドバイスをするにしても、伝え方がすごく大切だと考えていて。趣味でも好きな音楽でも何でもいいのですが、自分とその選手との「共通項」を探して、一人ひとりにとってわかりやすい例えを用いて話すとか、なじみのあるものに置き換えて解説するとか、どうすれば一番伝わるかを常に考えています。

―最後に、鈴木さんの今後の展望について教えてください。

鈴木:2019年から一般社団法人日本パラ陸上競技連盟のアスリート委員会の副委員長を経て、現在は日本代表チームの跳躍コーチに就任しています。長年、世界を見てきた自分だからこそ伝えられることや経験もあると考えています。
現場の選手やスタッフの目線を持ちながら経営層としても携わっていくことで、これまでお世話になったパラスポーツ界に貢献できればと思っています。


(第2弾に続く)

次回は、シリーズ企画第2弾!
2025年開催(11月15日〜26日の12日間)の東京デフリンピック出場を目指すアスリート社員が登場します。
ぜひお楽しみに!


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