【エッセイ】明治国道でたどる東海道 16 由比 旧国道に残る「日本で一番渡るのが難しい踏切」
「日本で一番渡るのが難しい踏切」 [1]の記事では,静岡市清水区にあるJR東海道本線の「倉沢踏切」が触れられている.この踏切はかつての東海道の由比宿と興津宿の「間の宿(あいのしゅく)」であった西倉澤地区に位置する.由比ー興津間の薩埵峠は東海道の中でも屈指の難所として知られていたが,幕末の安政東海地震(1854年)による地殻変動で東海道の道筋は海岸部へとつけ変わった.明治期,東海道は国道に位置づけられ国道2号(明治国道)となったのは明治18年.翌明治19年から東海道鉄道(現JR東海道線)の敷設に伴って,並走する国道も整備が進められた結果,明治22年の東海道鉄道の開業で明治国道2号に倉沢踏切が誕生する.
日本で一番渡るのが難しい踏切
倉沢踏切は静岡市清水区の由比西倉澤地区にある.車一車線ほどの狭い踏切で,一見すると,どこにでもある田舎道の踏切の風情であった.眼を先に転じると,踏切の先は一転して近代的な国道1号の富士由比バイパスへと変貌する.バイパスの車列は脇から進入する車のことを顧みることもなく,高速に流れている.
ところが,踏切を渡りきった先は車道が確保された交差点とはなっていない.この道から進む車は自ずとバイパスの路肩に停車せざるえず,その姿は船出しをする格好となる.
目視で見る限り決して広い路肩ではない.車の後方部は恐らく踏切の敷地内に入ってしまうのではないか.
東海道線は旅客列車だけでなく貨物列車も頻繁に往来する.そのため,数十分に一度は踏切の警音が鳴り響く.踏切を渡った先で躊躇しているうちに遮断器が降りようものならば,それに続く重大な危険に遭うことは容易に想像できる.
JR東海道線:倉沢踏切(静岡市清水区由比西倉澤)
安全にして確実に国道に進入するためにはどうすればよいのか.
その答えは踏切の脇にある「注意書き」にある.安全に国道へ合流するためには,踏切を渡る前に,一度,下車して運転手が踏切を渡って歩行者用信号機のボタンを押す.急ぎ車に戻ったあと,国道の本線が「赤」になったことを確認して踏切を渡る.
国道1号のバイパスの車の流れを強制的に止めるための唯一の手段はこれしかないようだ.
国道への合流と鉄道による障害という2つのリスクを回避するために,「歩行者用信号機」という方法をとらない限りは渡るに渡れないのが倉沢踏切の難度であり,トリックというわけだ.
倉沢踏切の周辺をめぐる道風景
歩行者用信号機があるのであれば,通行人による信号待ちも期待できるのではないかと考えるのが心情であろう.ところが,この信号機を使う人は極めて少ない.
倉沢踏切のある西倉澤地区は,かつては東海道の由比宿と興津宿の間の宿(あいのしゅく)として栄えた.今でも東海道の中でも随一の風情と旅情を残す名所となっている.
古来より西倉澤より西は東海道の難所として知らしめた薩埵峠へと至るため人家はここで途切れる.それは国道バイパスにおいても状況は変わりなく,西倉澤から西には目立った民家はない.人の往来が少ないのはそのような理由による.
旧東海道(明治国道)の面影を残す西倉澤地区
江戸期における由比-興津の道筋は「薩埵嶺親不知」とも称された.海岸線をたどるには岩礁に打ち寄せる波浪があまりにも危険であったことに由来する.その様子は歌川広重の『五十三次名所圖會』(通称:竪絵東海道)に描かれている構図から見て取れる.
歌川広重『五十三次名所圖會 十七 由井 薩多嶺親しらす』(安政2年)
断崖絶壁に切り拓かれた東海道の道筋からは遠越しに富士が見える.薩埵嶺は現在とも変わらぬ富士の景勝地ともなっていたが,その直下の海岸線は波濤が打ち寄せ,とても徒渉できる様子ではない.東海道は往来の道を確保するのに,薩埵嶺をトラバースせざるえなかったことが頷ける.
現代は海岸沿いに鉄道が敷かれ,また国道1号が走っている.それでは,いつ頃から高所を高巻きせずに海岸線をたどれるようになったのか.
調べてみると,幕末の天変地異の一つであった安政東海地震によって海岸が隆起・後退したことによる.1854年(嘉永7年)の旧暦11月4日のことだ.その規模は諸説あるが1.5mほど隆起したと推定されている [2] .
ーー前述の歌川広重の『五十三次名所圖會』は,一世を風靡した『東海道五拾三次之内(保永堂版)』の22年後の安政二年(1855)に刊行された.安政東海地震の翌年である.そのように見ると,「十七 由井 薩多嶺親しらす」の制作過程は,まさに地震直前の薩埵嶺を描いていたことになるーー
安政東海地震の前年には黒船が浦賀沖に投錨し,日本が尊皇攘夷で吹き荒れていた.そして,この安政東海地震の翌年には安政江戸地震が発生し,江戸の幕府機能は混乱を極めた.薩埵嶺の海岸隆起は,幕末の倒幕に至る内憂外患の激動の時期と一致すると考えれば,決して遠い昔の事ではない.
安政時代の一連の大地震は,人間の移動や交通にも実に甚大な影響を与えることになったと考える.もし,海岸隆起によって陸地が広がることがなったならば,国道1号の薩埵嶺の道筋も現在の国道8号の親不知のように崖を這うような姿になっていたのではないか.国道8号を照らし合わせて見てみると,国道1号の劇的な世界観の変化が読み取れる.
国道8号 親不知区間
東海道鉄道の開業と薩埵峠
安政東海地震の14年後に「明治」の時代を迎え,歴史の区分では江戸期の近世から近代へと変わる.その近代において人間の移動に大きな変化をもたらしたのは「鉄道」という新しいインフラの導入であった.
鉄道開業は明治5年に新橋ー横浜間に開通した.この路線は東の京と西の京とを結ぶ鉄道敷設のための工材を運搬する荷揚線の位置づけであり,旅客用はむしろ副次的な目的であった.それでも,新政府の維新の力をアピールする上で,衆目を集め,鉄道という新しい仕組みの「概念検証」をしたことでは大きな役割を果たしたと思える.現代の技術用語でいうPoC(Proof of Concept)である.
その後,東の京と西の京を結ぶルートは,明治政府の中でも中山道ルートと東海道ルートの方式検討において激しい議論が交わされたことはよく知られている.足掛け10年以上にわたって測量の調査が行われ,工費の折り合いなど多角的に検討が行われた.最終的には山縣有朋が進言した沿岸部からの艦船からの攻撃を想定,その回避を優先し明治17年に軍事的な観点に重きを置いて中山道ルートに軍配があがった.
しかし,最大の難所である碓氷峠における工事の概況が伝えられはじめると,想定以上に予算が膨らむことや工期が難航することから明治19年には中山道ルートは放棄される.
代わって東海道ルートがその座につくことになった.遅れを取り戻すこともあったかと思われるが,その後たった3年の明治22年に東海道鉄道を全通させる.
もし,この地殻変動による海岸部の陸地がなければ,東海道線は今のように海岸を経ることはなく,延長1000mを超える当時としては長大トンネルが掘られていたことと思う.もしかすると,東海道ルートの実現も長大トンネルの技術的な課題を解消させるために後ろ倒しになっていた可能性もある.
鉄道のインフラを整備する知識や経験はお雇い外国人であり,また日本固有の地形を克服する土木工学の技術水準を底上げするエンジニアリングとしては黎明期であった.
東海道鉄道が開業するまでの日本における長大トンネルの竣工事例としては明治16年に竣工した北陸線の柳ヶ瀬トンネル(延長1,352m)があるが,工期は4年を要した.京都における電力の源ともなった琵琶湖疏水では,第一トンネル(延長2,436m)を含めて,明治18年に着工し5年の歳月をかけている.特に琵琶湖疏水については東海道鉄道の同時期に工期と重なっていることからも,長大トンネルの技術については他への適用はすぐに展開できる状況ではなかったであろう.
明治前期においては,まだ日本のみならず諸外国においても長大トンネルを掘削する技術は平準的には持ち得ていなかったことを考えると,安政東海地震による海岸隆起は,東海道鉄道の敷設においては大いにプラスに作用したことになる.
明治国道と倉沢踏切
明治18(1885)年2月24日.それまでの等級制に変わり,日本で初めて統一的なナンバー制による国道体系が示された.そのうち,かつての東海道は明治国道2号「東京ヨリ大坂港ニ達スル路線」の一部に組み入れられる形となった.
詳しい記録は残されていないが,明治19年に東海道鉄道の整備とあわさって明治国道の由比の海岸線ルートも整備されたとされている.足場の悪い不定形な岩礁で工事の資材運搬を効率的に行うために道を均したのではないかと思われる.(したがって,明治18年段階での国道は薩埵峠を越えてゆく旧東海道筋であった可能性は残している.)
当時の様子に最も近い姿は,薮崎芳次郎による『東海道鉄道興津海浜真景』(明治26年;石版筆彩)の錦絵だ.山側にはまだ単線の東海道鉄道とその海岸側に人2名分の幅員の道が描かれている.
東海道線の由比ー興津区間に唯一存在するトンネルは「洞トンネル」であることから,これは興津寄りからのスケッチされた構図となる.この描かれている道こそが,旧東海道に代わって新しく整備された明治国道の姿,そして現在の国道1号の生まれた当時の姿だ.
薮崎芳次郎:『東海道鉄道興津海浜真景』(明治26年;石版筆彩)
出典:https://jaa2100.org/entry/detail/038690.html
明治22年になって倉沢集落から薩埵峠へ向かう道から分岐する形で海岸ルートへと向かうルートは明治28年測量の大日本帝國陸地測量部の5万地形図に描かれている.ここには東海道鉄道を跨ぐ場所にシケイン状に屈曲する箇所が倉沢踏切だ.陸地測量部時代の道の表記のルールからも,この倉沢踏切が「国道」であったことが明瞭に示されている.
今昔マップにおける5万地形図の「吉原町」(明治28年測量,明治42年7月20日発行)と地理院地図の対比
倉沢踏切以東の道
東海道鉄道が開通した明治22年の段階では,上記の明治28年測量の地形図からも読み取れるように,倉沢踏切から以東の道はまだ存在はしていなかった.現在のように由比方面に至るまでの海岸路が延長されるのは昭和7年のことだ.
昭和9年5月号の『土木建築工事画報』にある内務省技師・島野貞三の『由比興津間の国道改良工事』 によれば [3],昭和初期の頃には富士川町と袖師村(現:静岡市清水区)は自動車による交通障害が出始め,また倉沢踏切の交叉解消の必要性も言及している.
西倉澤地区の市街地の拡幅の案は,地元の反対が多いことや移転などの土地収用の確保が困難であることから,鉄道の海岸側に新道を設けることで解決を図った.現在でも悩まされている高波からの防波化のため,当時としては最新の技術であったコンクリート舗装による強度確保と防波帯を設けている.
竣工後の写真からは白亜の路面にフォードAモデルと思われる漆黒の車が眩しく映るが,防波帯の高さはほぼ車高と匹敵することでその規模を見て取れよう.
島野貞三:『由比興津間の国道改良工事』より(昭和9年5月)
このようにして昭和7年の改築によって,倉沢踏切以東は海岸道路という形で延伸された.倉沢踏切の視点からみると三叉路となり,ここに「日本一難解な渡り方」の原型ができあがることになった.江戸期においては薩埵峠が難所であった場所が,平成から令和にかけて倉沢踏切の難所化したのはこのような一連の経緯があったからである.
終わりに(戦後の一枚の写真)
西倉澤付近の国道1号は富士市と旧清水市(静岡市清水区)とをつなぐ唯一の道となっている.人体に例えるならば,この区間は交通の流れの頚椎(けいつい)だ.西に向かうにせよ,東に向かうにせよ,すべての車はこの区間を通らざるえない.倉沢踏切はそのような頚椎の要所にある.
現代は国道1号だけでなく,JR東海道本線や東名高速道路という日本の大動脈が,まさにこの狭隘部に一点に集中している.薩埵嶺の海岸へと押し出る独特の地形がそのようにしている.
薩埵峠から望む東海道線,国道1号,そして東名高速
由比の曲線美は国道1号の中でも秀麗であるが,またそれだけ脆く砕けやすい地形だ.絶えず寸断される危機に直面している.そのため,現代の国道1号(富士由比バイパス)は,高波対策による防波整備と地すべり対策が絶え間なく,また大規模に進められている.
ここに明治期の名残を探し求めることは難しい.何かめぼしい痕跡でもあればと探索をしたが,空振りに終わった.
ただ,このエッセイをまとめている中で,次の昭和22年に撮影された当時の写真を発見できたのは僥倖であった.この写真では,東海道線に東京方面に走る進駐軍専用列車にレンズが向けられている.一方でカメラマンは,富士の美しい裾野の線形を潰してまでも,右手の道路の「ROUTE 1 SHIZUOKA PREF」を映り込む画角を意識した.
この「ROUTE 1」は日本の道路法に基づく路線番号ではない.昭和27年のサンフランシスコ条約が批准されるまで,占領下にあった進駐軍(GHQ)のルールに基づいてGHQが設置したGHQの路線管理番号(通称:GHQ国道)である.
『富士山・進駐軍専用列車』(ジャパンアーカイブス:https://jaa2100.org/entry/detail/038588.html)
GHQ占領時代のGHQ国道1号は「青森ー東京ー鹿児島」であった.この写真では静岡県における区間で由比ー興津間が確実にGHQ国道であったことを示す.
静岡に設置されていたGHQの国道標識をとらえた写真は,他にも1例が見つかっているが,場所の特定には至っていない [4].その意味では上記の写真は非常に貴重な一枚であり,特筆すべきものとしてここに備考として留めておきたい.
参考文献
[1] くるまのニュース:”「日本一渡るのが難しい踏切」 どうやって渡れば? 謎解きレベルの踏切とは”,2021年1月21日.
[2] 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会,”第4章 地震と土砂災害 第1節宝永地震による土砂災害事例”,『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1707 富士山宝永噴火』,平成18年3月.
[3] 島野貞三,”由比興津間の国道改良工事”,『土木建築工事画報』,vol 10, No 5,昭和9年5月.
[4] Tierney, Lennox : "Japan during Allied occupation, 1945-1952 [045]", P0479 Lennox and Catherine Tierney Photo Collection, 1947