大河ドラマ 雑考1

 昨日は『鎌倉殿の13人』の雑感を書いた。手前味噌だが久しぶりに少しはまともなことを書けた気がする。来週以降も続けたくなったが、欲を出すと失敗するというのが世の常。これも歴史から学んだ気もするので、大人しくやっていきたい。

 さて、前回は置き去りにしたテーマがある。「大河ドラマ」自体の話である。大河ドラマは1963年の『花の生涯』から約60年続くドラマである(以下にNHKのサイトを貼っておく)。

 作品にもよるが、歴史は大学受験レベル程度の知識しか持たない私のような人間にとっては、その登場人物のほとんどが初めて聞く名前である。まず学校の教科書レベルでは載っていないし、超難関大学用の予備校の参考書のさらにその端っこに小さく載っていた人たちでさえも怪しい。もはやそこにも名前がない人たちが重要な役割を果たすことが多いという印象でさえも持ってしまう。

 もちろんドラマである以上、割愛されている部分や「おもしろさ」というのを考える必要が出てくる。大河ドラマで「正しい」歴史を学ぶことは難しいのではないかと考えてしまうからだ。どこまでドラマの中の出来事が史実なのかは注意しなければならないだろう。しかし、先ほど注意しなければならないと書いておきながら言うのもアレだが、「侮ることなかれ」とNHKの方に言われてしまいそうな話がある。どこで聞いたのかは忘れてしまったが、少なくとも今回の『鎌倉殿の13人』は細かな心情などは記録がないので想像が入っていても、基本的には記録として残っているもののみで物語が構成されているという。

 例えば一昨日の回も上総介広常らが双六に興じる場面は、なんとなく見ていると何気ないシーンにも見えるが、それが次回予告後の紀行で愚管抄のなかに残っていることが紹介されていた。非常にさりげないし、そこに至るまでの流れが実に違和感なく描かれているため、てっきり完全な創作なのかと考えてしまう。お恥ずかしい話だが私は800年以上前の出来事を史実だけで描くとすれば1年というのは長すぎるのではないかと思っていたが、ここまでの資料を残してくださった先人たちとそれを分析し再現されている製作陣には頭が上がらない。

 ただ、もう一つ指摘しておきたい。前半で「『正しい』歴史」という表現を用いたことについてである。大河ドラマで描かれるような時代の歴史というのは、現代を生きている人たちは誰もリアルタイムでは見ていない。誰かが記録を残してくれたものからわかってきたことである。とすれば、書いた(記録を残した)人の主観が入った記述となるのだから、何を正しいとするのかは難しい。要は誰かが記述したものを、誰かの目線で、誰かが映像として表現したものである。

 それでも私が高校3年の時の真田丸は明らかにクラスの日本史選択勢を助けていた。ドラマという気軽な形で歴史に親しめることの良さは必ずあるであろう。そう、私だってドラマを見て調べ直すくらいだ。逆にここまで歴史に触れさせてくれるコンテンツが日曜日のゴールデンにやっていることは一つの社会の豊かさといっても良いのかもしれない。

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