「合理的」の影響は何をもたらすのか(2)【些細なことにこだわる生徒と向き合うことから見えること】
合理的な思考と教育について考えています。前回はこちら。
合理的に学習する、一つのスキルとして、「些細なことにこだわらない」ことが挙げられます。最初から完璧に理解することは難しいので、ある程度理解したら、先に進むことは大切な思考法です。全体を理解した後に振り返ると、理解できなかったことが理解できるようになることは結構多い。
ところが、生徒によっては、これができない子がいます。ちょっとした疑問点がどうしても看過できず、そこから先に進めない。
塾には、そのような生徒も在籍しており、そんなバックグラウンドをもつ生徒から学ぶことも多いのですが、彼らは次のように言うのが気になっています。
「こんなことを聞くのか?って思われるかもしれないんですけど・・・」
と質問の前置きでそのようにクギをさすのです。
はじめは、なぜそのようなことを言うのか、不思議だったのですが、今、学校の雰囲気で、「こんなこと」を質問しにくい環境があるのかもしれないと感じています。
些細なことにこだわるのは変だという雰囲気があるのかもしれません。
それは、学校の問題というのも、先生の問題というのも違うだろうと前々から思っていたこともあり、いろいろ頭を悩ませていたのですが、これが合理的な思考と逆行する要素を含むからなのかもしれないと考えると得心がいくような気がしています。
というのも、合理的な思考という点では、些細な質問というのは、無駄なこととも言えるからです。
一度でも「そんな、どうでもいいことなんか、放っておけ」と大人から言われたら確実に委縮してしまうでしょう。
なので、そのような「どうでもいい些細な質問」が来た場合は、歓迎の意を示し(これに限らず、質問は何であれ大歓迎であると意思表明していますが)、その質問から本質にたどり着けるような議論ができないか模索しています。
実は、些細なことが大切であることも隠されていることがあるからです。
そして、必ず「また質問してね」と伝えるようにしています。
このような些細なことにこだわる生徒は、深く考えることができる人が多い。これも立派な個性であり、社会のブレイクスルーを担える可能性をもつ人でもあると思っています。
もちろん、合理的に学ぶというトレンドは社会の要請でもあるので、それはそれで意味のあることだと思いつつ、そこからこぼれてくる人もいることは理解する必要があるのではと思います。
合理的な思考に限らず、何か一つの価値に収れんすると、必ずこぼれ落ちる人がでる。これは教育の必然的な構造であり、ここにも目を向けることは大切なのではと思っています。
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