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「合理的」の影響は何をもたらすのか(1)【変化を感じる学校の授業】

現代人は、とかく要領よく行動することを貴ぶ傾向があります。合理的思考は、どんな分野にも浸食をはじめており、政治の分野での維新の躍進も彼らが経済合理性を第一に考えて行動することに理解を示す人達が多いからだと分析しています。

もはや、この合理性は信仰のレベルにまで高まっており、私の目には現代人の思考の柱と言えるかもしれないと思っています。その一方で問題もなくはないと思っています。そのように考える私は、少数派であることも自覚して行動しています。

合理的な思考は、教育現場にも影響を与えていると感じています。

増えたと感じるスピード重視の先生

昨年度から高2生の担当に入ったこともあり、これまで以上に学校の進路について、丁寧に調査するようになりました。すると、あることに気づきました。それは、進路のスピードです。昔は、「丁寧に教えすぎて、遅れ進行」となる先生も結構いたのですが、かなり減ったという印象です。増えたのが、爆速で終わらせる先生の存在です。
「ここは、先生が一気にしゃべって終わりました」
とか
「ここは、そこまで大事じゃないからと言われました」ということで、説明がカットされたという話も出ています。

何よりもスピード重視。そんな学校の先生の意図がみえてきます。

深刻な理科。何も頭に入っていない生徒の恐ろしさ

一見、大きな問題ではないのでは?と思われがちですが、問題もあります。
「先生が何か言っているけど、全く頭に入ってこない」という生徒の存在です。
これまでも一定数、そのような生徒は存在していたわけですが、その割合は増加傾向にあるなとも感じています。

数学は授業数も多く、生徒も重要視して、それなりに普段から勉強していることもあり、傷は軽いものの、理科は生徒によっては深刻です。

特に物理の大半、理論化学は数学より概念が重要な分野も多く、これを学び損なうと、何もわからない・・・ということは十分にありえます。

事実何もわからずに、ほとんどこじつけのように「暗記」して、定期テストに備え、テストが終わったら、内容が雲散霧消している例は増えたと感じます。
本当に何も残っていない生徒もいて、驚きます。

背景にあるのが、先生の合理的な思考か

理科の場合、公式は、思考の帰結であることが大半なので、その式を覚えてもほとんど意味はありません。式の背景をしっかりと理解することで、概念を身に着け、その概念に沿って思考することができます。

もちろん、そんなことは学校の先生も十分理解されたうえで、授業をされているはずですし、配布されたプリントを見てもその痕跡をたどることができます。
しかし、それが生徒に伝わっているのかは微妙なところです。

そこに感じるのが合理的に理解させようとする意図です。

個人的には、テキトーなベテランの先生よりも若い先生の方が意欲もあり、好感を持っているのですが、この合理性の強い傾向は明らかに若い先生にある。これが気になるところでもあります。

効率よく勉強できるのは、結局は上位層

そういう環境でも、しっかりとアジャストしてくるのが、上位層の生徒たちです。彼らは、学校の授業のやり方にあまり左右されない。だからこそ、優秀とも言えるのですが、合理性を追求し、スピード重視の授業をしても、その恩恵は、誰が得ているのか?と問われると、「誰も得していない」とも言えるのかなとも思わなくもありません。

教育に「合理的」は正しい視点か?

そうなると、合理的に学習するというテーゼを疑う必要があるように感じます。
このあたりは、教育に何らかの形で関わっている方には、「実感」してもらえることではないかなと感じます。

また、時に財界人が教育にあれこれ言う御仁がおられますが、現場の感覚では、頓珍漢なことを言っているように見えるのも、この「実感」がないのでしょう。

何にしても単一の価値観で問題が解決することはないというのは、「合理的」思考の問題点を考える上で重要な視点ではと感じています。








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