マガジンのカバー画像

アンゴラ&モザンビーク

73
1990年代後半のアンゴラ共和国やモザンビーク共和国の様子や現地での経験、その後の変貌などをマガジンにまとめていきます。 ヘッダー画像は南部ウイラ州とナミベ州を結ぶいろは坂、否、… もっと読む
運営しているクリエイター

#アンゴラ共和国

1997年当時のアンゴラ共和国(1)

私が初めてアンゴラ共和国を訪れたのは1997年のことでした。 終戦が2002年ですので、まだ戦時中のことです。 パリでビザを取得し、日付けが変わった夜半に出発するエアフランスに乗り込むと、隣にはすごーくおしゃべりなテキサス人の石油屋のおっちゃんが 座っており、話し掛けてくるのでしばらく相手をしたものの、周りにも迷惑だし、なんてったってテキサス弁は解り難い…。どうにもこうにも辛過ぎたので、仕舞いには寝たふりをしてしまいました…。ソーリー、おっちゃん! 目が覚めると早々に朝

1997年当時のアンゴラ(2)

この記事は「1997年当時のアンゴラ(1)」↓ の続きです。 当時のルアンダの「Marginal (マルジナーウ)」と呼ばれる海沿いの目抜き通りには、ほとんど店らしい店もなく、商店であったであろうショーウインドーも空っぽで店は閉ざされていました。 現地の人に聞いたところ、前年に思いもよらなかった市街戦が繰り広げられたのを機に、商店主等がヨーロッパなどに逃げてしまったのだということでした。 こういった裕福層が国外に退避していたことも、道が空いている原因の一つだったというわ

海辺でくつろぎながら、タイム・イズ・マネーを目の当たりにする

2002年に内戦の終戦を迎えたアンゴラは、その後高度成長期を迎えました。 交通インフラや高層ビルの建築ラッシュが始まると、道路は混雑を極め、1997年には車で5~6分だった距離を1時間以上掛けて移動するようなこともザラになりました。 2004年頃からつい3~4年前までは、ビル建設のタワークレーンが一機も 写っていないルアンダの町並みを写真に納めるのが困難だったほどです。 (今も建設ラッシュは続いていますが、出来上がったビルが増えた分タワークレーンだらけではなくなっています

アンゴラで目の当たりにしたブラジル流雇用促進術に感銘を受けた件

ブラジルでは1980年代後半からお目見えして 今ではお馴染みの「キロ飯 (comida por quilo)」こと、 「量り売りレストラン」。 好きなものを好きなだけお皿に取って、秤に掛けて、 その重さの分だけ支払うバイキングシステムで、 日本顔負けの短いお昼休みでもゆっくり食べられるので、 都会では今やウィークデーのランチタイムは どこのレストランもこのスタイルです。 一方、 アフリカに通うようになると、 どこも注文が入ってから準備を始めるので 待ち時間が非常に長く、

アンゴラから帰れなくなりそうになった話

Gerhard G.によるPixabayからの画像 これまでアンゴラについては内戦絡みの話が多く、 「アンゴラから帰れなくなりそうになった」 などというと、 「えっ、何かトラブルに巻き込まれたとか?!」 と心配して下さる方もいらっしゃるかもしれませんが、 これは2005年頃に起きて、 後にこの一行の懐かしい笑い話と化した話です。 ***** その日は朝9時頃ホテルのロビーに集合、各自チェックアウトを済ませたら 荷物を車に積んで空港へ向かうという予定でした。 全

実は本当に飛行機に乗れなかったこともあるんです…。

トップ画像:麦さん from Illust AC 昨日は、空港へ向けて出かけようとしたら、 マラソン大会に阻まれて飛行機に乗り遅れそうになった という話を致しました。 でも、その時は結局乗れてしまっているので、 今日は乗れなかった話を…。 【その1】 2005年10月、 私はアンゴラ共和国南部の町に滞在しており、 翌日には首都ルアンダに戻り、 一週間後には帰国、 という予定でした。 アンゴラのサッカーの選抜チームが、 ルワンダ共和国の首都キガリにて アウェーで行われた

アンゴラの美しいゴーストアイランド - ティグレス島

私は、四半世紀もの永きにわたりアフリカのアンゴラ共和国を 度々訪れて参りましたが、 ここには人は住んでいないと聞いたことこそあれど、 このような廃墟島であることや、 その経緯については何一つ知らずに過ごしてきてしまいました。 ここはティグレス島 (Ilha dos Tigres)、アフリカ南西部、アンゴラ共和国の なんとも美しいゴーストアイランドです。 アンゴラ共和国最南端のナミベ州の州都である モサメデス市(旧ナミベ市)から さらに 250 km ほど南下した、 ナミビ

フラミンゴロッジ(アンゴラ)

昨日は、行ってみたいとは思うものの、 まだまだ危険要素も残っていて、 大手を振って「いらっしゃい、いらっしゃい」 というわけにもいかない ハードル高めな絶景を紹介してしまったので、 今日は、「ここなら行ったことあるし、絶対お薦め!」 と言える場所を一つ! 昨日と同じナミブ砂漠ですが、 州都モサメデス市(旧ナミベ市)から わずか 50 ~60 km 地点にある フラミンゴロッジ、 南アフリカ人が経営している 砂漠の楽園です。 バンガローのお部屋も食堂もシンプルだけれど、

アンゴラ南部は既に秘境ではない?!

昨日たまたま見つけてしまって、 「ここについても書きたいな~」 と思った場所があるのですが、 先日から扱っているアンゴラ共和国の ナミベ州なので、 「いくらなんでも、しつこ過ぎるから、またそのうちね~」 と思ったものの、今日、ちょうど 「#一度は行きたいあの場所」 応募作品と「#海外旅行」の記事の中で、 「アンゴラの美しいゴーストアイランド - ティグレス島」が 先週特に「スキ」を集めたというお知らせが来て、 嬉しくなっちゃったので、調子に乗って 前倒しでもう一か所

ナミベの「ユーリイ・ガガーリン空港」で言われたことに「へっ?!」

アンゴラ共和国の首都モサメデス市(旧ナミベ市)の空港は かつて「ユーリイ・ガガーリン空港」という名称でした。 …ということだけは、以前も話したことがあります。 カーボベルデの「ネルソン・マンデラ空港」といい、 このアンゴラの「ユーリイ・ガガーリン空港」といい、 ポルトガル語圏の空港のネーミングセンスの無頓着さは やはり思い出す度に笑えてしまいます。 この「ユーリイ・ガガーリン空港」、初めて訪れた頃は トップ画像のとおり、空港っぽくない造りでした。 そして着陸する際の

ウアンボ市 Now and Then

アンゴラ共和国の中央高原に位置する ウアンボ (Huambo) 州の州都ウアンボ (Huambo) 市 旧名ノーヴァ・リスボーア (Nova Lisboa) には、 植民地時代、市民の憩いの場所であった 「ルアカナ (Ruacaná) 映画館」と、 人気の衣料品店 「Nova York【ノーヴァ・イオルク】」(=ニューヨーク) が入った雑居ビルからなる 人気スポットがありました。 映画館の1階部分は皆が集える軽食店になっています。 映画館では、 ↓ 「マイ・フェ

ダイアナ妃が亡くなった時の不思議な話

ダイアナ妃が地雷原に足を踏み入れて話題となったのは 1997年1月のことでした。 彼女が訪れたのは、奇しくも昨日の記事でご紹介した アンゴラ共和国のウアンボ州でした。 それから僅か半年後の 8月31日、 ダイアナ妃は パリでの事故で亡くなっています。 ***** 私が初めてアンゴラを訪れたのは、1997年2月、 ダイアナ妃が訪れた翌月のことでした。 そして彼女が亡くなる前日の1997年8月30日、 当時、形だけ近くのアパートに住んで、 半ば同居のようだった母が、

ポルトガル語で「ラッシュアワー」は…

交通渋滞のことは、 ブラジルのポルトガル語(伯葡語)でも それ以外の葡語圏のポルトガル語(欧州葡語)でも Congestionamento伯:【コンジェスチオナメントゥ】 欧:【コンジェシティオナメントゥ】 又は、 Engarrafamento伯:【エンガハファメントゥ】 欧:【エンガらファメントゥ】 といいます。 「Congestionamento」 は英語の "congestion"と語幹が同じなので 分かり易いですね。 一方、 「Engarrafamen

この建物の色のトリビア

この建物、何を隠そう、 在アンゴラ米国大使館なのです。 アンゴラが産油国であること、 建物が目立つ高台にあることに加え、 9.11 以降、米国が有事体制を維持し続けていることもあり、 ネット上の静止画像も動画も 勧告を受けたり消されたりしてしまうようで、 こんなボケボケのものしか入手できませんでしたが、 実はこの建物、 出来立ての頃は黄色っぽいオレンジ色だったんです。 こんな ↓ 感じの色合いです。 竣工は、9.11 事件から1~2年経った頃だったと記憶していま