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ペンたちの反乱

先々週の夕方、職場にいる僕に
妻からメールが届き、
拙宅の僕の机あたりに
何本ものボールペンが散乱していると。

3年前、リモートワークを機に
狭い居間の片隅に設えた書斎コーナー。
そのささやかな我が聖地たる机には
僕の頭上の高さに棚が着いており、
手帳や筆記用具が所狭しと並んでいます。

要は、その棚から、
10本くらいのボールペンを入れた
ペン立てが、落ちたというのです。

机の上から25センチ程の高さの棚にある
ペン立てが落下し、ペンたちは、
机の上や床に、無残な姿で放り出され、
痛々しい姿が発見されたのでした。
妻はびっくり仰天、僕に通報した次第。

では、何故落ちたのか。

当日は窓を開けておらず、
風のせいではないことは確か。
ペン立ては特段歪な形状ではなく、
真っ直ぐに天井を向いて立っていただけ。
そのペン立ての容量は、15本まではOK。

何かの重力や威力、
それとも念がかかったのか。

そんなこと、考えても無駄と思いきや、
ちょっと待てよ、と、僕のなかで
ある思考が走り出したのです。

その日の午前中、職場の仲間たちが
ChatGPTについて議論していました。
ある条件を指定すればAIが文章を
自動で作成してくれるという、
そう、その便利さについてです。

業務効率が上がり、仕事の時短化が進み、
心のゆとりが生まれるという快適さを
同僚は称えていました。
ChatGPTは報道でも毀誉褒貶を纏うし、
自分自身で腹落ちしていなかったので
僕は半信半疑、黙っていました。

このことに、ペンたちが反乱したのでは。
いい歳をして僕は彼ら(ペンたち)の
声を想像したのです。

「あなたたち人間は、
自分で文章を考える力を失うことに
気づかないのですか」

「文章には心が宿るものです。
どんな文章も書き手の気持ちを纏います。今後は機械に頼るのですか。」

「僕たちの出番が激減するということは、
手っ取り早く済ませようという、
文章に対する冒とく、いや、
読み手への非礼ではないですか」

「長年連れ添ってきたペンたちを、
もう使わないからと、
箪笥に仕舞うのですか、
それともリサイクルショップに
売るのですか?
それって、非情ではないですか」

そんなふうに、僕には思えたのです。
当然に現段階でChatGPTを
全否定するものではなく、
何にどう使うか、の一点だと思います。
国や組織単位で様々なルールが
設けられるのでしょう。

一方で、ペンたちの声に
耳を傾けることの出来た、
拙宅の極狹の書斎における
このアクシデントに感謝する次第です。
それでなくても、パソコンや
スマホで文章を作るようになり、
ペンたちの出番はめっきり減りました。
それでもちょっとしたメモ書き、下書き、
当然に大切な人への手紙は
手書きでしたためます。

手書き文字、文体は
人柄を表すとも言います。

僕は亡き父母の文字、文体を
今でもはっきり覚えています。
物凄く美しい文字を書いた父。
達筆だけど読める粋な字の母。
僕の文字などは家族に
どう思われているのか、
特になんの印象もないとなるのか。
僕は今一緒に働く仲間たちの文字を
心に刻みたいとも思います。

ChatGPTやAIの出現により、
より一層、手書き文字の魅力、
その意義や価値、自分で考えるチカラ
といったそれぞれの尊さが
脚光を浴びると思うのです。

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