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話せばほんとうにわかるんだろうか

一人一人の個性と多様性を認めるということについて

アーティスト同士で会をつくるというのは、人間の一番大切なものを出し合うような作業になります。

エンタテインメントによるほど、仕事によるほど実はやりやすいもので、逆方向にいくほど調整は難しくなります。

全く同じ方向を目指していることは皆無なので、どれだけみんなで調整していけるかが一番肝心な作業になります。

調和の仕方は人それぞれ

私自身はこうやりたい!こう表現したい!と主張するタイプではありません。

踊るときは自己がなくなり、時間がなくなり、現在が消えます。

ただ共演者の気持ちの中にのらないものがあると感じるとトリップが難しいのは事実で、感情が固まり体が動かなくなります。もちろん見ている人がわかるほどでありません。

逆に言語化がはっきり出来るほどこうしたい!こう表現したい!という表現者もいます。

どちらもありだと思います。

調和出来ないなら話し合えば分かるという人

問題は自分以外のアプローチを認めない場合です。
本人に自覚があるならそもそも共演しないので不都合は起こらないのですけどね。

認めていないことに無自覚で相手が妥協していない、わかっていない、努力していないと解釈することがあるんです。

非難された方は気の毒としかいいようがありませんが、非難したつもりはないので厄介です。


方向性が違い、折り合いが付かなさそうなので、一旦見合わせましょうとしても引き下がらないのがたいていで、話し合いましょうといいます。

表現者が会って話せば解決するというのはなんだか不思議な気がします。

表現の合わせで答えが出ているからです。

なんか合わないなと感じても人間的におかしいわけでも性格が良くないわけでもなく、ただただ感性が合わない。

これは仕方のないことでもあるし、逆に言えば必要なことでもあります。

違いがないなら一人の、もしくは一つの団体表現で世界は事足りてしまいます。

話し合ってもその人の望む解決には辿り着くことはないでしょう。

一部始終を見守る立場になってわかったこと

共演者の違いを認めるのは自分はこう見えたいと強く願う人ほど難しいのだと思います。

今回は自分ではなくて共演者同士のやり取りを側で見ている立場になりました。

ということはここに書いている解釈も結局は私が見ていた世界の中での解釈で、そうじゃないと言われることは承知です。

私から見ると違いもあるから良いという感じでした。

いつものパターン、本人が思う成功パターンからの逸脱が双方の新たな魅力を見せていたのです。

お互いが努力して相手の世界観へ歩み寄りをみせているのも伝わっていました。

ですが、それは渦中にいると分かりづらいのかもしれません。

私はこんなに頑張っているのにあなたは何も歩み寄りを見せていない。

当事者の一方がこんなふうに言ってしまうと、歩み寄ろうと努力していた心は折れてしまいます。

相手を慮ること、自分が見えている世界だけで判断しないことの大切さをしみじみ感じました。

自分事で大変になると他者への思いやりがなくなるものです。

ということは、、日頃から自分を労わってあげるのが思いやりを持てる近道なのかもしれません。

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