見出し画像

コーチ*ヒカルの自己紹介(幼少編)

コーチとして起業してはや17年。
18年目に突入し、私はどのようにしてコーチングに行き着いたのか?を振り返りながら整理してみたい。

少し前、ソムリエとしての自己紹介も綴ったが、コーチとしての切り口で人生を振り返っても、ソムリエとは全然違う側面が出てくるところがおもしろい。長くなりそうなので、連載形式でまずは生まれてから5.6才の幼少期のことと、両親との性格の違いについてをこの幼少編で書いてみる。

私の名前の由来

福岡県の南の田舎で生まれた私は、「光輝くような人になるように」との想いを込めて、名前は「ひかる」と名付けられました。

そんな後付けの立派なことを両親は教えてくれたけど、本当は父の「光徳」という名前の「光」という字をきっと氣にいっていて、そこから付けたのではなかろうか?と思ってます。
現に、一番下の弟は「光太郎」って名前ですから、多分その線が怪しい。。。笑

ただ、女性だということで漢字の光ではなく「ひかる」と平仮名にしてくれたのは柔らかい感じがするので個人的には嬉しいポイントです。

母曰く、生まれた時からまわりの赤ちゃんに比べて品がよく(泣かないからと思う)悟りをひらいたようなシュッと洗練されたクールな赤ちゃんだったそう。

当時は珍しい職業婦人だった母のお母さん(私の祖母)は、初孫の私が目を開けたのを見て、思ったより目が小さいことにがっかりしたという話もあるし(笑)、
それに対して父は、「大きくなったら絶対モテるばい」と親バカに予測。
小さい頃からひとりの女性として尊重して大事に育ててくれていたと思います。

当時の父と母の状況

27歳と20歳で結婚した両親は、数回妊娠しては流産していたと聞いたことがあるので、結婚4年後にやっとできた赤ちゃん(私)の誕生を、とても喜び、希望の光だと思っていただろうということは想像できます。

当時の私は「泣きもしない・笑いもしない」という感情表現をあまり出さない赤ん坊だったようで、泣かないから手はあまりかからなかったようだけど、笑いもしないってなんなんだろう?

若くして小姑が多かった父の家に嫁いできた箱入りだった母は、「潔癖」でデリケートなところがありとても真面目に初めての子育てに取り組みすぎて、メンタルがやられてしまい、しばらく育児ノイローゼーみたいになった、と父から聞いたことがあります。

お母さん、ごめん。

そうこうしているうちに次の子供ができ(2つ下の妹)、必要に迫られて母の育児に対する許容度も上がったのか、育児ノイローゼはなくなったようですが、その時もしかすると心の救いを宗教に求めていたのか、物心ついた頃から、我が家にはたくさんの聖書がありました。
子ども用、〜語訳と書かれたもの、絵本などなど

田舎で、父は本家の長男で仏壇を守っていくというところに嫁いできて、信教が違うことはきっと色々不都合があったり辛いことがあったんじゃないかな?

母は我慢強くて信念があるので、子育て中には父の流儀に合わせていたけど、父が定年退職をすると、洗礼をうけ、ひとりクリスチャンになりました。

父と母の信教が違うと、同じことを示すにもそれぞれ主張する内容が変わってきます。

私は幼少の頃からその「主張の違い」や、親とはいえ、まだまだ20代30代の成長段階であり、その人として未熟な部分からくる「言動の不一致」を理解するのにいつも時間がかかっていました。整合性がないと理解できない。
意味がわからないと混乱する。ごくごく普通の子供です。
ただ顔色を見て態度を変えるようなことはなかったようで、頭が混乱している間ぼーっとしてしまうので、『気が利かない』と父は感じていたようです。(後のLOGICBRAINシートで解説してますが、父は臨機応変タイプといって、その場の空気を読んで、人の顔色を見て対処できるタイプですが、私は違うタイプです)

特に父が気分屋で、たまに突然キレること(氣が荒いところはあったかも??)に関して私は、もう完全に理解不能に陥り、3歳の頃には原因不明の栄養失調になって、入院して点滴を受けたことがぼんやり思い出されます。

父は目の前の色々(人や動物などのペット)を甘々に甘やかすわりに、自分の思い通りにならないと厳しく叱責するタイプで(今考えると単なるわがままな未熟者と判断できますが…)、

目の前の人を「喜ばせている自分」に「自分が満足する」タイプの人です。きっと今でも本質の部分は変わってないと思うので、そんな性格です。
かわいい人とも言えますし、長期的にみれば自分の上司だったら避けたいお山の大将みたいな人なのかもしれません。

父はいつも自分がしてあげたことに関しては何か「良い反応」を求めるので、子供としてはめんどくさくてやってられない(私はそんなタイプだからしょうがない)、私は心の中でそう感じていました。

私の身に起こった原因不明の栄養失調とのことですが、理由はあります。
私がよく覚えているのは、父は私を喜ばせようと、いつも帰宅の時にお菓子やお土産の食べ物を買ってきてくれていました。

一家の大黒柱的な存在で自分のファミリーを作り上げたかった父なので(父は両親を早くになくしているので、家族に対して並々ならぬ思いがあるようです)、父が帰ってきたらみんなで一緒に食事をする、そんな夕食のスタイルでした。

帰ってきてすぐ、かわいい長女である私を喜ばせようと、なにかお土産のお菓子を与えると、お腹もすいているし、嬉しいし、父から与えられたものを食べると、お腹いっぱいで、肝心の晩ごはんが食べられなくなってしまいます。

そうすると父は怒り狂ったように「食事を残すこと」に関して突然キレるのです。
3〜4歳くらいの子供にそのメカニズムが理解できるはずもありませんし、そもそも食べられない状況を作っているのは父なのですが、性懲りもなく、翌日もその翌日も、母にとめられていても喜ぶ私の顔みたさに甘やかしては、私をだめにするのです。

すっかり父がいる食事の時間になると気が滅入り、萎縮してしまって、もう何も喉を通らなくなってしまった結果、栄養失調になったという、精神的なダメージからくるものだったことを強く覚えています。

小さい頃から「原因と結果の繋がり」が破綻していると、吐き気がするくらい違和感を感じているような感受性の子供だったので、幼いながらにも自分の体を守るために必死で自分の世界を作って閉じこもっていたようなそんな思い出の子ども時代です。

母は私が食べ物が喉を通らなくなってしまって、病院に運ばれてからは、心を入れ替えて(?)感受性の強すぎる娘をもっとたくましく育てなければ!と決心したそうです。
それから、かなり大雑把に育てられて今に至っているので、27才くらいだっただろう当時の母に感謝。

とはいえ、強烈な原体験はそのくらいで、日常に目をむければ、自然の中でのびのびと、家には犬も猫も小鳥もにわとりもいて、妹もいたしにぎやかで両親に愛されて育っていることは事実です。

父はどうも信用ならないと幼心に思ったのか、結構、母の言うことを聞いて感性豊かに育ったほうだと想います。

私を私たらしめる私の個性の元となった父と母。
今の私であれば、両親の個性をロジックブレインなどのデータ分析アプリを使って分析することができます。

父と母そして私のLOGICBRAINを用いた個性分析

資格を持っているLOGICBRAINに必要事項を入力し、出てきたシートがこちらです。

▼まずは父はこんな人(赤と黄色の人)

父は「感性タイプ」
私の思い出通り、ピンとくる直感をもとに行動を起こし、たしかに気分にムラがあるタイプとなっています。

一番上右に囲んでいる円グラフは、その人の中身が何色(何タイプ)でできているか?というグラフですが、父は赤(感性)と少しの黄色(理性)でできています。黄色は相手のために〜という視点の優しさがあり、この部分が正義感を強くさせていたり弱いものを守る、という原動力になっているのかもしれません。ちなみに父は柔道が6段の有段者で、警察の仕事をしている間中、護身術を教える活動をしていたようで、退職後、皇居にて叙勲を受け瑞宝章を賜っているくらい、教えたりするのが好きなようです。

「パーフェクトタイプ」という名の通り、完璧主義で色々礼儀や細かいところにうるさく、自分が王様タイプというのはそのとおり。
最後のビジネススタイルが「規律的スタイル」だというところも、堅苦しさを感じさせる要因になっていてたしかに父といると私は息が詰まってしまうので、学生時代は早々に自分の部屋に閉じこもって自分の世界に入ってしまった自分と、対話をしたいのに思い通りにならない私に苛ついていただろう父が思い浮かびます。
ただ、長女であることと、溺愛するくらい可愛がってくれていたので、愛情あふれる父が私の父親でよかったと思っています。

▼続いて母はこんな人(赤と青の人)

母は、父と同じ「感性タイプ」で「パーフェクトタイプ」です。
ただ違うところは、右上の円グラフの割合が、赤と青でできています。
父は赤と黄色で青は入ってません。

青は物事を合理的に「比較」して考えて行動したいと考える傾向があり、父と比べると母の方が、より合理的で物事をクールに見極めていたのはたしかにそのとおり。

一番下の囲いのビジネススタイルは「自然的スタイル」という一見ほんわかしていて癒やされるような見た目でいて、勘が鋭い世渡り上手なタイプでのんびりしていて、「食」に関して縁が深い傾向です。

▼最後に私はこんな人(青と黄色と赤の人)

私は、両親とタイプがまったく違って青優勢の「比較タイプ」です。
右上の円グラフでは、青・黄・赤のすべてが入っていて、比較(青)と理性(黄)が拮抗しているタイプです。

赤も黄も持ち合わせていたことで、両親の考え方の元になっていることが、自分の中にもあり、自然と理解ができたことはラッキーだったかもしれません。

中断の列のビジネス2タイプ、マネジメント2タイプ、プレゼン思考の2タイプは、両親と全く違う逆のタイプであるのですが、ここは「価値観」となる部分であるので、親がなにか押し付けるとしたらここの部分になるのではないか?と思います。

ここは本人が自分で気づいて、自分で守っていかなければ、両親に潰されてしまったかもしれない本質の部分なので、私はこの大事な部分を自分で知って(両親と物理的、心理的な距離をおくことで)自分を守ることができたことが、今まで自分を大切にしてこられた一番の要因だと感じています。

一番下のビジネススタイルは、ラッキーなことに母と同じ「自然的スタイル」です。
ここは生き方の方向性の部分なので、母も私もおおらかにのんびりと自然体でいることの「空気感」が同じだったので、母と一緒にいるのはとても心地よく、急かされたり無理強いされた記憶はまったくなくて、いつも良いところを見つけてくれては、笑顔で優しい氣持ちで過ごすことができたことはとても有り難いことと思えます。

ちなみに妹と弟は、母や私とは違う「スタイル」なので同じ母に育てられているにも関わらず、母からの育てられ方に不満を持っていたようでしたので、両親との相性と、自分の個性を知ることってとても重要なことなのだと感じます。

幼少の頃に感じていた謎

上記のように、個性の違う両親に育てられながら、私がいつも謎だった部分は、人はどうしてそのような行動をするのか?どうして違うのか?

この1点です。

どうして、父と母は違うことを言うのか?
どうして、妹と私に違う色の服を着せようとするのか?
どうして、兄弟で贔屓や好き嫌いがあるのか?
どうして、三つ葉の中にたまに四葉があるのか?
どうして、動物は種類によって模様が違うのか?
どうして、妹はあの食べ物が好きだけど、私はこっちが好きなのか?

どうして?どうして?どうして?
の疑問は小さい頃から目につくものすべてなんでもにあり、私のどうして?は母を辟易とさせたはずです。

私は年長さんの年でやっと保育園に入園していますが、5歳くらいまでは専業主婦だった母に連れられて母とずっと一緒に居たはずなので、大人しくて、泣きわめくことや癇癪もなく、あまり騒がない子供で手がかからない、母にくっついてお手伝いをするのが好きな子供だったけど、きっとなにかのたびに、いろんな疑問を覚えては、母を質問攻めにしていたはずです。

案の定、字が読めるようになると、母は自分で調べなさい、とまるで図書館みたいに高価な百科事典を買い与え、疑問は自分で調べて解消するような知の探求を好む少女へと育っていくのです。

コーチで独立するまで、あと26年。
幼少の頃から、両親のことが謎でなじまず、どうしてだろう?と疑問が多い考えること、自分の世界にはいることが好きな内省的な子供だった、小学校に進むまでの私です。

幼少時代編はここまで。次回に続きます。





この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?