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「オリエンタリズム」が語るアジア人としての存在

今回からしばらく、僕が今学期カナダの大学で学んだトピックを一つずつ紹介していきます。今回は名著「オリエンタリズム」。

なぜ日本人は、いや、世界中の人は英語を勉強するのでしょうか。なぜ世界中の学術論文は無条件に英語で書かれるのでしょうか。なぜ世に出回る諸々の「世界ランキング」は、アメリカとヨーロッパで占められているのでしょうか。 


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(世界ランキングの一つ、Times Higher Education World University Rankings)


サイードの「オリエンタリズム(1978)」はこの疑問の根本を問います。彼は、東洋(=“Orient”)とは西洋(=“Occident”)が自らの正当化のために作り上げた観念の一つ(the style of thought)であると定義します。

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西洋の常識からして異様で理解できない対立概念をすぐそばに作ることで、自らを差別化しその優位性を明確化する。ヨーロッパにとってオリエントとは”The Europe’s greatest and riches colonies”だとも書いています。つまり、今の私たちが考えている「アジア人」もヨーロッパの植民地主義が作り上げた産物なのです。

この「差別化」は歴史的には極めて普遍的なアプローチで、それはナチスにとっての「ユダヤ」であり、大日本帝国にとっての「朝鮮半島」や「台湾」でした。ただしサイードのいう「東洋」は西アジアや中央アジアなどのイスラム圏に焦点が当たっており、その点は著者自身が言及しています。

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しかしサイードは重要なパラドックスを孕んでいます。それはサイード自身が西洋にアイデンティティを置いている、ということです。

作者Edward Said (1935-2003)はエジプト・カイロの出身ですが、早くから英語のエリート養成学校に通い、名門プリンストン大学を卒業・その後ハーバード大学で東洋研究をします。

つまり、彼のアイデンティティー自体が典型的な「西洋のエリート」であり、事実この「オリエンタリズム」も英語で書かれています。

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果たしてサイードは西洋という枠組みなくして高名を馳せることができたのでしょうか。いや、「オリエンタリズム」自体、英語以外で書かれていたらここまで評価されていたでしょうか 。私たちが「世界」と呼ぶもの自体が欧米、もっと限定すると英語のポスト・モダニズム以降の枠組みでしかないのでしょうか。出なければ、なぜ「世界の〜」と銘打っているランキングの多くがアメリカ・ヨーロッパで作られてるのでしょうか?

留学すること。それは自分をある「異質な」枠組みでの思想・評価システムに身を置くことです。それはつまり自分を"Alien"であり少数派の一部とすることです。留学することでしかし、私たちははるか前からヨーロッパ・アメリカの知識人たちが作り上げた優位性・思想体型の中にいた事実を思い知るのです。

つねに何かの枠組みでしかない自分自身。時代とともにその中心は変遷するものの、国、文化、個人、全てがある観念の囚われものであることを「オリエンタリズム」は語っています。

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