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いびつなプライド

第三者からの言葉で、ずっと悩み続けていた問題の本質に気づかされ、唐突に腑に落ちる、ということが時々ある。

昨年末に書いたnoteの中に、私の中に長年あった家族に対する葛藤を書いた。

ここへコメントを寄せてくれたくまさんの一言に、まさに“腑に落ちた”。

noteの中でも書いたけれど、私は子供の頃から母との関係がうまく築けなかった。何を話してもわかってもらえない感覚しかなく、「だからあなたはダメなのだ。」とか「何を考えてるのか理解できない。」と言い続けられてきた。

小さな頃に、「あなたは兄妹で一人だけ似ていないでしょ。拾いっ子なのかもね。」と冗談混じりに母に言われた事が強烈に記憶に残っていて、小学生の頃は、いつか本当の親が迎えに来るんじゃないかと半ば本気で考えていた時期がある。

今となっては笑い話のようだけれど、当時の私には大問題だった。

兄と妹は、私の目から見れば母に可愛がられていたから、何をしても怒られたり受け入れてもらえないのは、自分だけ異質だからなのだとずっと思っていた。自分の側に絶対的な非があるのだと信じていた。

なぜ、そんな風に思い込んでしまったのか、今回のくまさんのコメントを読んで理解した。『家族は仲良くするもの』という固定観念が私の中にあったのだ。

『親は子供を可愛いと思うもの』という常識のようなものが私にあって、そこから外れた母と私の関係の問題点は、「可愛いと思ってもらえない子供」側にあると自ら思い込んでいたのだ、ということに気づいた。親側にある問題など、考えることもなかった。

自分が親になってみて知ったのは、親とて万能ではなく、いつも正しいわけでもなく、不足だらけの一人の人間だということだ。「子供を育てながら親になっていく」とよくいうけれども、本当にその通りなのだ。

親になることに戸惑い、自信が持てず、思い通りにいかないことに腹を立てることもある。そして子供が自らの難題に突き当たるたびに、一緒に悩んでもがく。正当な答えなんて持ち合わせてはいない。自分の少ないちっぽけな経験の中からしか、子供へ語る言葉も持たず、いつだってこれで良かったのかと自問自答の日々だ。

それがわかっていながら、なぜ自分の親は『完全無欠の親』だと思い込んでいたんだろう。

自分が小さな頃から目にするテレビドラマやCM、絵本の世界では、たいていの家族は円満だ。「家族」といえば幸せの象徴、「母親」といえば安らぎの象徴、みたいなコンテンツを浴びるように見ているうちに、自然と出来上がった固定観念なのだろう。そうカテゴライズしておいた方が便利だと思っている世の中が作った常識に照らし合わせて、そこから外れたら外れたものの方が間違いだと思わされていたのかもしれない。

一度自分の中に取り込んでしまった常識は、容易に変えることができない。その常識が自分の中にあると認識すらしないほどに、自然に存在している。

何処かの誰かの都合に合わせて、勝手に作り上げられていった常識が、自分の中にいつの間にか浸透し、マジョリティとマイノリティに分ける。

人間社会が単なる個の集合体なのだったら、『マジョリティ』『マイノリティ』という言葉自体存在しないはずなのに。

この『常識』というものは、よく歪なプライドを生む。

自分が『常識』の範囲内にいると思っている人は、そのプライドによって範囲外にいる人を攻撃する。

そして自分はその範囲からこぼれてしまった、と思わされてしまった人は、自分たちを攻撃するものに向けて反撃する。

私の場合、複雑な形のいびつなプライドを持ってしまったことに気づいた。親に受け入れられない自分は異質だと思い込み、それによって、異質ではないということを証明しようと、ずっともがいてきた気がする。あるがままの自分を認められなかったのは、ここが出発点だったのだ。

人間は皆、個性豊かでユニークな存在なのだと分かっていれば、そもそも『異質』などは存在せず、存在しないものを証明する、などという無駄なことはしなくてもよかったのだ。

今回、リアルな場所ではとても吐き出しにくい思いを、noteという空間で表現できて良かった。普段なら知り合うこともないかも知れない、生まれ育った環境も境遇も、生業も違う人からの目線で見た言葉をもらえて、気づきが生まれた。

最後になりましたが、くまさん、アンサー記事をありがとうございました。

もし、同じように悩む人がいたら読んでみてください。


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