天皇位に挑戦した将軍 足利義満
日本の天皇制というのは、世界的な観念から見ると、極めて特殊である。
平安時代の藤原氏、鎌倉時代の源頼朝、戦国時代の織田信長など、天下を取った人間がその国の王となるのが自然だろうが、日本ではそうならなかった。
称徳天皇は自分の後継者に、平民出身の僧である道鏡を指名したが、あくまで称徳は「皇帝」としての禅譲を実現しようとしたのであり、天皇とは意味合いが全く違う。
桓武平氏の血を引く武人、平将門でさえ、坂東八か国の新皇となることが目的であり、天皇を否定した訳ではなかった。
こうして百二十五代続いてきた天皇位だが、実は室町時代に一度だけ、乗っ取られる危険に晒された。
天皇の座を狙ったのは、室町幕府三代目の将軍、足利義満。
後醍醐天皇によって時代は南北朝となり、天皇位が混乱していた状態を、足利義満が策略によって南北を統一し、皇統も安定した。
ちょうど第百代天皇、後円融の御代である。
現在の皇統の系図とは違い、第八十五代仲恭天皇は廃帝となっており、更に南朝ではなく北朝の天皇を代数に入れているので、後円融天皇が百代目となる。
後円融と義満は、母方からいうと従兄弟の関係であった。
父方は清和天皇の子孫であるが、皇統とは程遠い。
天皇になるには父方の血筋がものを言うので、義満は天皇にはなれない。
後円融と義満は同い年である。
加えて母方の従兄弟という関係からくる気安さからか、義満は後円融の妻を次々に奪っていった。
義満には、天皇を尊重する意思が無かったことは明白である。
その上、義満は中国(明)の皇帝に朝貢し「日本国王臣源道義」の称号を正式に得た。
「天に二日無し」という言葉が義満の頭に浮かんできたのも自然の流れだろう。
先程、後円融天皇が第百代目であると述べた。
『古事記』の中にこのような一節がある。
「まことに知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相続き、剣をかみ蛇を切りて、万神蕃息せしことを。」
この中の「百王相続き」というのは「何代にもわたって天皇家が栄える」というのが本来の意味だが、義満は「天皇家が百代で断絶する」と読んだ。
徳川家康が方広寺鐘銘にあった「国家安康 君臣豊楽」を、家康を呪った文であると言いがかりをつけた事件と何やら似ている。
後円融の後に後小松天皇が即位するが、天皇家乗っ取りを図った義満は、後小松の長子を出家させた。
この長子こそ、かの有名な一休宗純である。
義満の天皇家乗っ取り計画は順調に進む。
自分の息子である義嗣(嫡男の義持とは不和だった)を、宮中において親王待遇で元服させ、これを強引に後小松天皇の養子として次の天皇とし、義満自らは太上天皇となって、足利家を天皇家とする。
これが義満の描いた未来像だった。
国内外ですべての権力を得ている義満を止められる人物は誰もいなかった。
後小松とて下手をすれば、義満に配流される可能性もあったのだ。
ところが、義嗣の元服を終えた翌日、義満はにわかに発病し、一週間後にあっけなく亡くなった。51歳であった。
死因は、風邪とも流行病とも言われているが、いずれにしろ突然の死だったことは間違いない。
これは明らかに、暗殺であろう。
朝廷側も、まさか義満がここまでするとは思わず、手をこまねいていたところでの義嗣「親王」の誕生に、慌てて暗殺実行に動いた、というところだろうか。
皮肉なことに、義満は准三后(皇后に準じる)の位についており、周りを取り巻く医師は、当然高い位(法印、法眼など)の官職を持つ朝廷側の人物ばかりであった。
とにかく、ここで義満を亡き者にしなければ、足利天皇家が実現してしまうのである。
朝廷はついに義満暗殺に踏み切り、亡くなった義満に「鹿苑院太上法皇」の尊号を追贈して、何とか乗り切った。
これが天皇家にとっては前代未聞かつ、最大の危機だった。
その後、天皇は政治的にも力を失っていくのだが、天皇家は滅びなかった。
日本というのは、本当に不思議な国である。
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