見出し画像

母なる神を求めて

ぜーんぜん毎日投稿出来てなくて草
トップ画像とタイトルは全く関係ありません。

こんばんは。さおりちゃんです。
久々に書く。ちゃんと書く。
ふう。

今日は読書記録。
読んだのはなんと図録である。

1999年の世紀末に各所で開催された、「遠藤周作の世界展」。
その図録『母なる神を求めて』を読んだ。
実はこの図録、私の蔵書ではなくて、私が勤めるギャラリーのオーナーの実家にあったものだ。一応オーナーの蔵書である。
オーナーの実家は、ギャラリーから4駅からさらにちんたら歩いたところにある、3階建てのもともとご実家の事業の事務所と住居が入っている大きくて広い建物なのだが、いまはどなたも住まれていないので、我々ギャラリーの作品を置く倉庫や作家の滞在場所にしている。それで私が度々立ち寄ることがあるのだ。
そのお家の広いリビングにある、スカスカのこれもでかい本棚に、ギャラリーの展示記録ファイル数冊と、本が数冊と、何故かワンピースが20巻ぐらいまであるのだが(オーナーの甥っ子さんがオタクだったらしい)、その中で私がこの遠藤周作の展覧会の図録を見つけて、オーナーに貸せ貸せとせがんで貸してもらったんである。

オーナーは遠藤周作を読んだことがない。遠藤周作はクリスチャンであったが、オーナーないしそのご家族がそうだったのかというとそうでもない。
オーナーはどちらかというと神道の方が好きである。
なんでこの人がこんなん持ってるんだろう(失礼)と思ってパラパラめくって奥付をみるとなるほど合点がいった。
装丁を山本ミノさんが担当されているではないか。

山本ミノさんは、オーナーと数十年のお付き合いがある(はず)デザイナーであり、芸術家である。主に抽象画と水彩画を手掛けておられる。
装丁は展覧会図録だけでなく、個人の画集や、絵本なんかも担当されている。先日お亡くなりになられた葛城ユキさんの廃盤になったレコード「スペシャル・エディション SPECIAL EDITION [12" Analog LP Record]」のジャケットも担当されていたそうだ。
今年の8月に水彩・ペンスケッチの個展を当ギャラリーで開催し、私なんぞは大変お世話になったし、現在進行形でもなっている。初めてお会いしたのは昨年の6月末であったが、有難いことに随分可愛がっていただいている、と思う。
なんといっても、すごい酒飲みなんである。

閑話休題。
とにかく、今回はその図録を読んだのだ。
しかして遠藤周作という人は作家である。
私の好きな作家3本の指に入る。
この時の展覧会は遠藤周作没後3年に開催され、写真・所有物・蔵書・芸術品コレクションを展示したようだ。
この図録のなにがすばらしいのかというと、寄稿文が大変重厚で読みごたえがある。
まず安岡章太郎に始まり、編集者の大久保房男、三浦朱門、吉行淳之介、阿川弘之、瀬戸内寂聴、息子の遠藤龍之介、遠藤周作と加賀乙彦との対談などなどと続き、最後は妻・遠藤順子へのインタビューでおわる。
そうそうたるメンバーである。安岡章太郎と吉行淳之介なんて3バカ仲良しトリオだし、後失礼な話この中で何人生きてる?って感じである。ちなみに吉行淳之介は3バカの中で一番最初に召されている。

私と遠藤周作の出会いは私が大学4年生(1回目)だった時、尊敬している教授・タカヤマ大御大の授業を受けていた時である。
出会いは云々と抜かしているけども、私と遠藤周作はお友達ではないし、亡くなられたのは1996年、私がこの世に出て来たのは1997年なので、生きてる時ですらかぶっていない。
それはそれとしてタカヤマ御大の確かドイツ哲学の授業で、ニーチェを扱っている時に、御大が遠藤周作の放送大学での講義DVD「あなたはあなたを知っているか」を流したんである。
その時大変失礼ながらいつも通りうつらうつらしながら講義を聞いていたのだが、「自己」に対する講釈が面白かったと思ったことを覚えている。ニーチェ解釈と言えば「自己」の解析である。詳しい内容はちょっと実家に置いてきたりなんかしちゃったりしてね!
私の母の大分にある実家に遠藤周作の『父親』があったこともその講義が印象に残った理由の一つでもある。
それがきっかけで私が一番最初に読んだ遠藤周作の著作は『父親』である。
驚いたのがとにかく文章の美しさ、読みやすさだ。人物の心理描写がアホでも分かる。登場する「父親」の役割と「娘」の役割を非常にバランスよく描いている。

この図録は、タイトルだけあって、『沈黙』を主にターニングポイントとして、遠藤周作の一生を俯瞰する流れになっている。
『沈黙』は私も読んだことがない。敢えて避けてきた。描写がよすぎて読むのが厭になるからだ。(共感性ナンチャラというのかもしれない、余りこの言葉は使いたくないが)
存命の期間ですらかぶっていない私と遠藤周作だが、ひとつだけ共通点がある。クリスチャンという点だ。そして心から信仰しているかというとちょっとそうでもない気配があるような点も同じである。違うと言ったらカトリックかプロテスタントかくらいである。
私がクリスチャンだといろんな人に言うと、私の性格のせいかかなり驚かれる。実はちゃんと洗礼も受けているのでちゃんとした(?)クリスチャンなのだ。
長崎のキリシタンが江戸時代強いられたという「踏み絵」というのは、カトリックもプロテスタント関係なく、日本人のクリスチャンにとってはある意味「腫物」のような感じはある。これは私がちゃんと教会に通っていた時代(笑)に感じたことだ。「踏み絵」を踏まない、ということは美徳とされた。私はその「美徳」に賛成しつつ、違和感も感じていた。
『沈黙』では踏み絵を踏むことを否定しない。
遠藤周作は日本人として、ヨーロッパ的な宗教に準ずることについて考えていたという。曰く男性的な宗教でもあるキリスト教に母性を求めて『沈黙』を書いたという著述もあった。
私は『沈黙』のイメージを変えるべきなのかもしれない。日本のクリスチャンが読まなければいけない本なのではないか。

遠藤周作の言葉の美しさがどこから来るのか、幅の広さはどこからか来るのか、この図録の人物評でとらえられる。
文学の作家を分析するのに家族構成は欠かせない。ターニングポイントをしっかり据えてある意味論文よりライトに捉えられる、いい図録なのだ。

次私が読むのは遠藤周作の『海と毒薬』だ。『沈黙』じゃないのはまだ買ってないからですっ。
『海と毒薬』も名作と言われる。遠藤周作の著作で名作じゃないのあるのか。

そもそも今まで読んだ遠藤周作の著作が軽すぎたのかな。
『父親』と『ぐうたら社会学』だもんな。

ところで、わたしこの2作品、オーナーに貸してるんだけども、いつ返ってくるんだろうか。


この記事が参加している募集

#読書感想文

188,091件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?