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比べるものでないということ

隣の芝生は青く見えるものだ。それは仕方がない。自分自身の芝生を俯瞰して、他人の目で見たことなんてないのだから。本当は青々としていても、それに気が付かず枯草だと諦めてしまうことだってある。

現代社会に生きる人たちは、どことなく個性を追い求めているように見える。

らしさ、好きなこと、プロフィール、なんていう言葉に敏感だ。だから他人や自分の芝生の色が気になって仕方がない。そんなものを気にしなくたって、結局は目の前に生えている草を刈るしか方法はないのに。

ただ、桁外れでまったく異なる芝生を目の当たりにすると「ああ、本当に比べられないものなんだ」と、いい意味で自覚できる。ストンと気持ち良く、理解できる。

比べるものではないのだと。

どんぐりの背比べ的な芝生をいくつ眺めていても諦めが付かなかったことも、珍しい芝生が目に入れば、スッと自分の芝生だけに集中できるようになっていくものだ。それに出会えるか、出会えないかの話。

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先日、北海道の阿寒湖(あかんこ)に伝わる、アイヌの伝統舞踏を鑑賞した。

アイヌはご存知のとおり北海道の先住民で、日本語とは異なったアイヌ語を駆使する民族。個人的にとても感動するのは、いろいろな生き物の呼び名に「神(カムイ)」というキーワードが付いていること。

例えば、タンチョウはサロルンカムイ(湿原の神)、フクロウはコタンコロカムイ(村を守る神)、カラスはカララクカムイ(鳴き声の神)、エゾオオカミはホロケウカムイ(狩する神)、と名付けられている。

大自然とともに歩むアイヌにとって、このような名前を付けることは至極当然のことであったのかもしれない。踊りのなかでも、感謝を表現するような振付が多かったように思う。

踊りをしてくれた方がどういったバックグランドの持ち主なのか、はっきりとは分からないけれども、恐らく顔立ちなどからして、ご先祖様がアイヌだろうな、ということは察しがついた。

踊りを見て、感動してこっそり泣いた。

特に、女性が長く伸ばした髪を左右にぶんぶん振る動作があって、神秘的なものを感じた。きっと踊りのために髪を伸ばしているのだろうし……。

どういう気持ちで踊りに関わっているのかは分からないけれど、その方たちの人生は間違いなくアイヌと関係していて、それはこれまでも、これからも決して変わらないでしょう。

無理に人生を選択してきたわけではなく、ただ、そうであるからそう生きる。

私たちは生まれたときから、決まった芝生のうえで息をし始める。どんなに泣いたって、喚いたって、成功したって、うぬぼれたって、ただ足元にある芝生と共に生きている。引越しが出来ないだけで、みんなに芝生が用意されている。

比べるものじゃないんだよね。

アイヌの踊りを見ていると、苦労も秘めているだろうに、なんて清々しく自分たちの芝生を大切に育んでいるのだろうと思わざるを得なかった。

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健康に生まれて、学校に通って、結婚して。わたしは特別じゃない。スーパーマンでも、極端な苦労人でもなんでもない。

そして、突然変異は起こらない。これまでもこれからも、死ぬまでずっとずっと普通の人だ。悪いわけじゃない。与えられた芝生と向き合うだけ。

(↑の写真はサロルンカムイ)

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。