「理解されない」「死にたい」という言葉から心理士が学んだこと【生きづらさを考える①】
臨床心理士・公認心理師でVtuberもやってます、狐田さきつねと申します。狐田と書いて「こんた」ですよ。キツネが好きです。
さっそくですが、
「生きづらい」と思ったことはありますか?
これまでさまざまな方とお会いして、時には相談だったり、より専門的なカウンセリングの場だったり、コンサルテーションの場だったり、と
多くの方と「生きづらさ」について、お話ししてきました。
「生きづらい」と感じる時って、なにか大きな壁のような?見えないなにかの圧力のような?ものがある気がしますよね。
その「見えないなにか」がわかると、ちょっと楽になるのかなぁ、と思ったわけです。
さまざまな「生きづらさ」にかかわらせてもらった者として、僕が学んだことが誰かの気付きになれたらいいな、と思い、今回のテーマとしてみました。
「生きづらさ」の内容を分けてまとめてみます!今回は第1回!
1. 誰にも理解されないという人
高頻度で出会います。というか、理解してくれる人がいれば僕と出会うことはなかったかもしれません。
多くの場合、一旦話をしっかり聴くことで落ち着くことはできます。
ですが、それでは根本的な課題は解決されないため、生きている世界の中ではなかなか理解されたと感じることはできません。こちらに対して「お前も他の者と変わらない」となるパターンもあります。
「理解されない」「理解してくれない」という考えが固まってしまうような環境というのはどのように作られていくのか…
「理解されない」時間が長くなると「理解してもらえるかも」ということも怖くなるかもしれません。踏み込まれた後に「でもやっぱり理解していなかった」につながるかもしれないから。
そうなると「理解されたい!」と自ら行動に出ることもどんどん億劫になりますよね。
「○○したらいいよ!」とか言われると『できたら苦労しねぇわ』か『もうやってきたわ』と感じてしまいますよね。
そういった話を受け、学んだことは…
「理解されない」と信じている人はこちらを見ていないことが多いです。いや、きっと見ることができないのです。もしかしたら、自分のなにかが違うという、自分自身の気付きで苦しくなるかもしれないから。理解することにも恐怖が伴います。
実際に「まず話を聴いてくれる人のことは、よく見えていなかった」と後で教えてくれた方がいました。
「理解してくれない」訴えに対して言葉通りに捉えて、ただ理解者を増やしたり、理解されるために聴く時間を伸ばしたりすることは表面的な課題解決になってしまう場合があります。より本質に根ざした道筋を見通しておかねばなりません。
もしかしたら「誰にも理解されない」というのは、「私は他の人間のあり方を理解できない」という意味になるのかもしれません。
もしかしたら、実際の経験がないことから「理解されるのが怖い」という意味も隠れているのかもしれません。
こういった苦しさを感じている方に「私が理解しよう」という姿勢自体が違うのかもしれない。
もしかしたら「理解されない苦しさ」を聴いた時に、支援者側がその言葉にとらわれすぎてしまっているかもしれません。
「理解されない」という苦しさは「理解される」という言葉があることを前提にしています。しかも、相手の反応を待たずにおこなわれる自分のなかのとらわれの側面もあります。
でも、人とのかかわりは「理解される・されない」という言葉に限りません。
「理解されない」歴史を長く感じてきた方自身が、「理解する・理解しない」という2択しかない世界からどのように脱却できるか、その2択で生きてきた方に他の見え方をどのように提示できるか、その方がお互い苦しまず、自分を見つめ直す機会を作れるかもしれません。
「理解されない」生きづらさは、「理解」に左右されない生き方を探る方が、選択肢は広くなることを学ばせてもらいました。
2. 死にたい人
悲しいですがお子さんからも「死にたい」という言葉が出てきます。もちろん大人からも。
そして、この話題について、もうたくさんの方がおっしゃっているので、わざわざ書くのもあれですが、「死にたい」は「生きたい」ということだと。
いや、でも、これ怖いんですよ
間違いではないと思います。「よりよく生きたい」でもうまくいかなくて「生きていたくない」から「死にたい」という言葉になる…
今まで何度も聴いてきたこの言葉だけど、僕には一度も同じ言葉には聴こえませんでした。
その方の苦しさすべてを凝縮したこの言葉、詰まっているものが違い過ぎて。
この言葉に直面するといつも思います。「死にたい」ものは「死にたい」んだよな、って。
言葉を巧みにつかって思い直させたり、自分を保つために「本当は生きたいんだ」と思おうとしたり…
それもおかしいわけじゃないし、ダメなことでもないと思います。
僕が実際に言われた言葉ですが、
「死にたいを死にたいとして聴いてくれたことが嬉しかった。だから生きたいって言えた。」
相手の気持ちから想定できることはたくさんあります。相手のこれまでを聴き、今ここでの反応から、相手の思いを考察することはできます。
共感性が高い方は、よりそれが理解できると思います。多分僕より上手に理解できる方も、心理士でなくともたくさんいらっしゃると思います。
ただ僕は「その方の言葉は奪いたくない」と考えていました。
そして、それが「生きたい」につながることを教わりました。
待つだけでもなく、誘うわけでもなく、「死にたい」をともに考えました。思うことや考えることは自由です、その方にとっての自然が「死にたい」になっただけで。
そのなかで、その方が自分で探り当てられたのです「自分のなかの生きたい」を。なんとも言葉にしづらくて、理論的でない話ではあるのですが、
こちらの理解したことを言語化あるいは可視化して整理していくことももちろん大事な場面はあります。
ですが、「その方だけが言葉にしてもよい」あるいは「その方が言葉にすることで意味を持つ」ことがあるのだと気付かされました。
だからこそ「言葉を奪わない」ことを保障することの大切さを学びました。
そんな経験から「言葉にすること」そのものの影響力を、より客観的に見る機会をもてるようになったと思います。
本当に出会った方々に教えてもらうことばかりです。
2つの「生きづらさ」から
今回は2つの「生きづらさ」から学んだことをまとめてみました。
・「理解されない苦しさ」からは、言葉を自ら狭く深くすることで抜け出せなくなる可能性
・「死にたい苦しさ」からは、相手の言葉を奪わない大切さ
を学ぶことができたわけですが、振り返ってそれを言語化することはかなりエネルギーのいることですね…!
ですが、この学びが少しでも誰かの支えになったり、気付きになったら嬉しいなと思うので、今後も続けていこうと思います。
理論的にまとめるのも、感受性のままにまとめるのも、どちらもやっていきながら、改めて自分を見つめる機会にもしていきたいですね!
ご希望のテーマなどあればどうぞご気軽に。
今後もどうぞよろしくお願いします!
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