楽しいが目的になり人を幸せにさせる
先日、休憩中にお茶を飲みながら、テレビをザッピングしていたら、Eテレの高校講座数学Ⅰで「因数分解」をやっていて、ふと手が止まった。
番組を見ていると分かりやすく解説されていて、今ならちゃんと理解できるなるなーと思った。
高校に通っていた当時は、「数学」と聴くだけで拒絶していたから、因数分解の意味すらもよく理解していなかった。
そんなことを考えながら番組を見ていると、そもそもなぜ因数分解を学ぶのだろうと考える。
因数分解を理解することで生活の何に役立つのかと。
こういったことを高校時代にもよく考えていたことを覚えている。
高校を卒業して以来、この番組を見るまで因数分解について考えることは一度もなかった。
因数分解に限らず、高校の授業(普通科)で学んだことで、実生活で役立ったといった実感を持つことがあっただろうか。
でも、今なら因数分解は理解できそうだと思えるようになった。
ちゃんと学べば理解できそうだと思えた。
もちろん、だからといって今から因数分解を学ぶことはない。
なぜかといえば、因数分解を学ぶ目的がないから。
しかし、高校の頃、因数分解を学びたいという明確な目的があれば、学んでいたのではないかとも思えた。
たとえば、数学の先生が因数分解が生活の中でどんなことに役に立つかを教えてくれていたなら少しは興味を持つことができたかもしれない。
因数分解的思考が人生を豊かにするとか、そういったことを熱く語ってくれていたなら学ぼうと思えていたかもしれない。
あるいは、好きな子が数学が好きで、彼女と仲良くなるために因数分解を理解する、といったやましい目的であっても構わない。
それがどんな目的だったとしても、因数分解を学ぶことで結果的に楽しめるのであれば、真摯に授業を受けることもできたのではないかと思う。
人は、基本的に興味を持ったことしかしたいとは思わないものであり、興味のないことは極力したくないと思うものだ。
単に楽しいことだけをしていたい。
それが本音。
興味が持てるかどうかで行為が変わる。
そんなことを考えていたら、学生生活で興味を持って取り組んだ授業ってあったかな、とふと思う。
小中高の9年間と大学の5年間(一年留年している)の合計14年間、楽しくて楽しくてしかたがないと感じた科目があっただろうか。
すると、恐ろしいことに何ひとつ思い浮かぶことはなかった。
では、一体、僕は何のために学校に行っていたのだろうか?
何を目的に学校に行っていたのか?
小中くらいは、みんなが行くから行く、くらいの感じで学校に行っていたように思う。
高校も同様に「行くのが普通」くらいに思っていたと思う。
でも、高校くらいになると自意識が強くなるから、何のために学ぶのかといった目的意識がないと勉強をする気になれなかった。
だから、ただ義務感で学校に行っていたように思う。
部活もしていたけれど、それが楽しくて楽しくてというわけでもなく。
学校生活で、一体、何を学んだのだろう。
その後、大学に行ったのも家を出たいという思い一択だったから、受験した学部はバラバラで、唯一受かった所に入り「実家からの脱出」という目的は達成されたものの、その学部の授業に興味があったわけではないから留年するのは当然のことでもあった。
大学を辞めてまでしたいと思えるようなこともなかったし、中退する勇気もないまま卒業し就いた仕事にも明確な目的があるわけではなかった。
そんなことを考えていると、人生の多くの時間を無目的に過ごしていたということに気づいて、ぞっとした。
もちろん、学生生活でも就職してからも楽しい瞬間はあった。
しかし、振り返ると苦しい時間の方が圧倒的に多く、何かに夢中になれていた時間が極めて少ない。
ここ数年、やっと「楽しい」を目的にして生きていけるようになったからいいものの、それまではまさに煩悶として生きていた。
そんなことを考えて出た答えが、今日のタイトルの「楽しいが目的になり、人を幸せにさせる」ということ。
人は楽しいと感じることがあってこそ幸せになれる。
学生の頃も就職してからも、授業や仕事が楽しいと感じなくても、好きな人がいたりするとノリノリで学校や職場に向かっていた。
そういった楽しさがあれば、人を前向きにさせる。
楽しいと思えることは、それだけで目的になるものだし、そういった目的があるだけで人は幸せになれるもの。
だから、生活の多くの時間を自分の好きに当てることができれば、人生を充実させることができるだろう。
好きを目的に変えて行動することができるようになれば、それだけで幸せになれる。
成功するとかしないとか関係なく、楽しいと感じることや好きなことをすることができるようになれば幸せを感じて生きていけるようになって、毎日を満たして生きていけるようになる。
しかも自分の好きや楽しいを日々体現していれば、その道のプロになっていくのは当然のことでもある。
好きを極めれば必ず何かしらの形になるはずなのだ。
誰もがプロフェッショナルとなって、多くの人が生きるのを楽しめるようになるのが理想の社会。
むしろ、一人ひとりが楽しんで生きていけるようにならないと、人類は衰退していくのではないだろうか。
自分の楽しいを優先させていけば幸せになれる。
「楽しい」を優先していけば、自分と同じような思いを持った人たちとの出会いがあるから、どんどん楽しさの規模を広げることができる。
そういった楽しいを基準にした新しい世界を創っていく。
無目的だと、人生を楽しむことができない。
目には見えない何か、実像のない何かに生かされるのではなく、今この瞬間を自分の楽しいを活かして生きていく。
楽しいが目的になり、その目的を遂行することで人は幸せを実感できるようになる。
どんなことでも楽しいと感じないと追求できないし、追い求めるのが生きることの楽しさでもある。
それをすると楽しくなる、そういうことをして生きていく。
それが自分を輝かせる。
楽しさがなければ、楽しく生きていけない。
シンプルに生きられる、そんな世の中を創っていかなければ。
誰もが笑顔で過ごせる、それが理想の世界といえるだろう。