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第49回:「喜び」は「苦難」を反転させると生まれる

今回は、「喜び」は「苦難」を反転させると生まれる、ということを書いていきます。

人生の最大の苦難
それは最大の創造のチャンスである
陰が大きいほど
陽も必ず大きくなる

「タオの法則」

この文章は、「タオの法則」という千賀一生さんの本からの引用です。

千賀さんは、「苦難」が大きければ大きいほど「喜び」も大きくなるといっています。

たとえば、私たちの望んだことが何の抵抗もなく、すぐに叶ってしまうのであれば、「喜び」の感情を抱くことはないのだと思います。人は「苦しい」と思うことがあるからこそ「喜び」を体験できるようになっているのだと思います。

こういったことから「喜び」と「苦難」は二つで一つという「陰陽」の考え方が生まれ、それを図にした太極図が生まれたのかもしれません。

太極図

そう考えると、千賀さんの言葉にあるように「陰」の部分の「苦難」が大きければ、それに比例して「陽」の部分の「喜び」も大きいものになるし、「陰」の経験を一つの素材として、「陽」の「創造」に使うこともできるようになるでしょう。

したがって、「苦難」を「苦難」と思わずに、それを「チャンス」と捉えて反転させることができると、大きな「喜び」を得ることができるようになるでしょう。

「上手くいかない」は「もっといいがある」の合図

先日、あるお店で木製の器があってそれを購入しようとしました。しかし、その器は、ディスプレイ用に小物を入れるために使っていたため、店員さんに聞いたところ売ることができないといわれました。

私は、その器はもともと商品だったし、器の裏側には値札のシールも貼ってあったので、売って貰えることはできないのですか、と店員さんに尋ねたところ、そのお店ではディスプレイ用に使っているものなので、お売りすることはできませんといわれました。

そういったやり取りがあり、結局、私はその器を買うことを諦めましたが、どうも納得がいかず、その後、しばらくプンプンしていました。

しかし、そういったことがあったことを忘れていたある日、たまたま訪れたお店に、前のお店で買うことのできなかった器よりも良いものを見つけることができました。

その器の大きさは、断られたお店のものよりも少し大きかったため、今は重宝していて、結果的に、前のお店で断られてよかったと思っていたりします。

こういった感じで、上手くいかないときほど、それは最善のことではなく、他にもっといい方法があるよ、というメッセージであったりします。

また、「何か上手くいかないな」とか「ちょっとしっくりこないな」と感じるようなときは、そこに意識をフォーカスさせるのではなく、「他にもっといい方法があるはず」と気持ちを切り替えた方が「シンデレラフィット」が起こったりするものなのです。

目に映る全てのことはメッセージ

小さい頃は神様がいて
不思議な夢を叶えてくれた
優しい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても奇跡は起こるよ

「やさしさに包まれたなら」

これは松任谷由実さんの「やさしさに包まれたなら」の歌詞ですが、この歌詞にあるように、いつも優しい気持ちで過ごしていると奇跡が起こるのだと思います。

反対に、普段からイライラしていると奇跡が起こることはないでしょう。

とはいえ大人になると、どうしても合理的な思考を身に付けてしまうため、その合理的思考が心のトゲになってしまい、ついイライラしてしまったりします。

先ほどの木製の器を買えなかったときに私がイライラしてしまった理由は、まさにこの合理的思考が働いたからです。というのも、その器を買えなかったことで、また、別の日に別なお店に行って探さなければならないという思いが私のイライラの原因だったからです。

合理的思考は、常に最短距離を行きたいという思考であるため、急いでいるときには最適解になったりします。

しかし、常に最短距離で歩いていると、たとえば途中にあるケーキ屋さんにふらっと立ち寄って美味しいケーキに出会うといった奇跡を味わうことができません。

子どもの頃は、合理的思考を持ち合わせていないから、道に落ちている石や葉っぱを見つけては、そこに奇跡を見つけていたわけであり、子どものように優しい気持ちで生きていたらな、「目に映る全てのことはメッセージ」と捉えることができるかもしれません。

もちろん、大人になると合理的思考は必要になってくるため、たまには合理的思考を手放して、意識して遠回りを楽しんだりすることも大切なのかもしれません。

苦難を創造に変換させるのが合理的な生き方

最高の善は、水に似ている。

水は、万物に利益を与えつつ、
また静かであり、
多くの人は嫌がる低い場所にいる。

これが、神意にかなった合理的なあり方、すなわち「道」である。

「老子 あるがままに生きる」

これは、「老子道徳経」の超訳本である「老子 あるがままに生きる」の一節ですが、老子は合理的なあり方を「水」にたとえています。

「水」は、どんな形の器であってもその中に納まります。また水は必ず驕り高ぶることなく低い方へと向かって行きます。そういった姿を「上善」であると老子はいっています。

「喜び」は上善の意識ですが、「苦難」はその反対にある意識です。「苦難」をイメージすると、トゲがあったり、いびつな形をしているようなイメージがあったりします。

しかし、そういった「苦難」からトゲやいびつさを取り除くことができたとき、水のような「上善」に変えることができることでしょう。

先ほどの千賀さんの「人生の最大の苦難 それは最大の創造のチャンスである」という言葉は、「苦難」の形を「丸く輝かせる」ことで出来るといっていいでしょう。

そして、最後にはその形さえ無くならせてしまい、水のように変えることができたとき、「苦難」を「上善」にしてしまうのだと思います。

そういった意味では、普段からトゲを抜いて、やさしさに包まれて過ごすことが大切なのかもしれません。何をしてもダメな時はダメだし、上手くいくときは上手くいくものです。

だからこそ、ダメだと感じるときこそ考え方ややり方を変えてみるといいかもしれません。多少、面倒に思えても最高の結果を得られると思えたなら、その面倒さも相殺されることでしょう。

排水溝の杭を抜くだけで、水が一気に流れ出すように、ほんの少しやり方を変えただけで、物事が上手く流れ出していくこともあったりします。

もしかすると、奇跡とはそういったほんのわずかな誤差で生まれるものなのかもしれません。

「やさしさ」と「水」の性質はとても似ています。私たちが「水」のような「やさしさ」を身に付けることができたなら、案外、簡単に「奇跡」を起こせるようになってしまうのかもしれません。

「喜び」は試行錯誤の末に生まれる

「喜び」は苦難を解消しようと試行錯誤の末に生まれるものでもあり、「苦難」は「喜び」を得るための原動力でもあります。

そして、一度、大きな苦難を喜びに変換できるようになると、それが耐性になってしまうため、その後は「苦難」を「苦難」とは思えなくなっていきます。

そうやって人は、困難を乗り越えるコツを覚えることができるようになり、合理的な判断を下せるようになっていきます。

人は困難にぶつかったときに、どう対処すればいいのかというやり方を知っているだけで、余裕が生まれてくるものなのです。こういった余裕は、人が生きていく上での合理性に繋がっていきます。

試行錯誤は、そういった対処の方法を得るために必要な過程であるため、「苦難」は人を成長させるものでもあります。

また、人が「苦難」を乗り越えることができるようになると「余裕」が生まれるだけでなく、その「余裕」によって「やさしさ」も養うことができるようになっていきます。

「余裕」によって築かれた「やさしさ」は「水」のような「最高の善」であるため、「奇跡」を呼ぶ「呼び水」となることでしょう。

だからこそ、人が「苦難」を「苦難」と感じるのではなく「創造のチャンス」と捉えることができたとき、そこに「喜び」という「奇跡」を生み出すことができるようになるのです。




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