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愛を習得するには、強くなければならない
先日、メジャーリーグのオールスターでのホームラン競争で、大谷選手の同僚のテオスカー・ヘルナンデス選手が、決勝戦の相手に1本差という僅差で優勝した。
このテオスカー・ヘルナンデスという選手は、いつもニコニコしていて笑顔が特徴的な選手であり、そんな彼がホームラン競争で優勝したのは、当然のことのように思えてならない。
彼のような常に笑顔で過ごしている選手を、勝利の女神が見放すはずがない。
だから、最後の最後で奇跡的なことが起こったのだと思う。
万人にも愛されるような彼の笑顔をぜひ、動画や画像で検索してご覧になって頂きたいと思う。
昨日のオールスターゲームでスリーランホームランを打った大谷選手もそうだけれど、どんなときでも笑顔を絶やさずにいるということは、彼らは軸となる自分をちゃんと持っている証拠でもある。
常に同じような心理状態を保てるというのは、精神性の強さを表す。
心が上下動していては、「いまここ」を保つことは難しい。
「いまここ」とは、今を丁寧に生きることでもある。
前回の記事で、次のようなことを書いた。
目の前で起こっている現象に感情を引っ張られている限り、自分主導で幸せになることができないし、目の前の現象に反応して感情を発露していては、主体を外側に委ねてしまうことになってしまい自分自身に対する丁寧さを手放すことにもなる。
どんな他者であっても丁寧に対応することが愛の行為であり、苛立ちを感じても丁寧に対応できるようになれば、少しづつ愛の意識を習得できるようになるだろう。
テオスカー・ヘルナンデス選手は、自分自身に対して丁寧に生きているということもできるし、それが彼の強さとなっている。
強いということは、強靭さを示すだけではない。
ブレのない自分でいることも「強さ」ということができる。
自分自身の信念を常に保って生きられるのは「強さ」の証。
今日のテーマである「愛の習得」には、そういった強さが必要となる。
愛の意識は、腰の引けた状態では習得できない。
腰の引けた状態とは自信のなさの表れであり、自信のない状態で愛を表現することはできないといっていいだろう。
「愛していると思う」といっても相手には伝わらない。
「愛している」と断言できて始めて、相手に伝わるものだ。
「愛の意識を習得する」と決意したのであれば、その決意にぶれがあってはならない。
以前、読んだ「神との対話」という本の中で、「愛ならどうする?」ということを意識して生きなさい、といったことが書かれていた。
何をするにしても「愛ならどうする?」ということを考えて生きていけば「愛の意識」を習得することができるかもしれない。
だからこそ、まずは自分の思いに対して強さを身につけなければならない。
愛の意識を習得するには、本気になる必要がある。
どんなときでも愛の意識を持って行動できるようになってはじめて、ぶれのない自分でいられるようになる。
感情に自分自身が振り回されて日々の生活を送っていたら、心を落ち着かせて過ごすことはできない。
もちろん、感情的になることは悪いことではない。
喜びの感情は素直に表していきていきたいし、悲しいことがあればためらうことなく涙を流せたほうがいい。
しかし、怒りの感情には注意が必要だ。
怒りの感情は、自分にも他者にも発展的な結果を生み出すことはない。
怒りの感情を愛で包むことで、自分にも他者にも発展的な結果を生み出すことができる。
怒りの感情は、自分の期待している思いとは異なる言動を受けたりすると湧き上がる。
たとえば、自分が丁寧な対応をしているのにも関わらず、相手の対応に丁寧さが欠けていたりすると、イラっとするような感情を抱いてしまう。
つまり、自分の思いと他者の思いとのギャップが人の感情に火を点けてしまうといっていいだろう。
人は得てして、自分が正しいという思いを持って生きている。
だからこそ、自分と異なる言動をする人や違った考えを持った人に対して、苛立ちを感じたりする。
もちろん、自分と全く同じ考えを持っている人は存在しないし、人はそれぞれ違った考え方を持って生きている。
そういった違いがあるからこそ、自分という存在を認識できることができる。
僕は常々、「人は違っていいし、その違いを認めていこう」ということを書いてきた。
だから、自分の考えと異なる人に対して感情的になるということは、これまでの自分の考えを否定していることにもなる。
「自分と同じような考えを持ちなさい」というのは、いってみればエゴの声であり、他者をコントロールしたいという思いでもある。
この他者をコントロールしたいという思いが、果たして愛の意識かどうかというと、そうではないといっていいだろう。
だからこそ、そういった自分の性分とは異なる人と出会っても、丸ごと受け入れた上で冷静に自分の思いを伝えられるようになることが、愛のある行為ということができる。
もちろん、丸ごと受け入れるからといって、万人と仲良くしなければならないというわけではない。
「ねばならない」という考えは、自分に対する「愛」を奪うことでもある。
義務感で何かを嫌々するということは、自分に対する愛を損なわせる。
「愛」は、自分への愛と他者に向ける愛のバランスを取ることでもある。
では、どのようにすれば自分への愛と他者への愛のバランスを取ることができるようになるのか。
それこそが「愛ならどうする?」という問い掛けになる。
出来事の一つひとつが、すべて同じではない以上、その時々で「愛ならどうする?」という自問自答が必要になるし、当然、選択する行為はその都度、異なるものだ。
だから、その場面場面で違った形で愛のある態度を取ることになる。
大切なのは、どんなときでも「愛のある選択を出来るようになる」という心掛けを持って対応していくことだろう。
そういった思いを持って、日々、行動できるようになってこそ「愛の意識」を習得できるようになっていく。
これまで無意識にしてきた習慣を変えるには時間がかかる。
しかし、無意識にしてきた行為を意識的に変えることができるようになれば、自分自身を変えることができる。
意識に対して意識的に生きることができれば、それまでとは違った世界が見えるようになるだろう。
そして、自分の意識に意識的になった世界こそが、自分の望む世界でもあるのだ。
だからこそ、まずは自分の思いに強くなければならない。
軸となる心掛けをコロコロと変化させていては、強さを身に付けることはできない。
腰が引けた状態で取り組んでいては、「愛の意識」を習得することはできないだろう。
冒頭に書いたテオスカー・ヘルナンデス選手のように、いつも笑顔を絶やさずにいられるのは、彼の強さを証明している。
だから、彼は幸運を味方につける。
強さは柔軟さの中に存在するものであり、どんな状況でも自然な形で対応できるようになることが理想だ。
言葉にするなら「柔よく剛を制す」、あるいは「上善は水の如し」。
愛の意識を習得するには、水のような柔らかさと強さを身に付けなければならない。
愛の意識を習得するのは一筋縄ではない。
しかし、少しでも理想に近づくことができれば、見えてくる世界が変わっていくことだろう。
愛の意識を習得できるようになるにつれて、見える世界は間違いなく変化していく。
「愛ならどうする?」と自分自身に問いかけて生きれば、やがて愛の意識を習得することができるようになるだろう。
愛とは生きるための哲学であり、愛を理解し実践して生きていけるようになれば世界が変わる。
これまでとは違った世界で生きていけるようになることを楽しみにしながら、日々の生活を丁寧に送っていきたい。
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